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33もりそばに小天丼がついたセット。何口食べても心が弾んだ 帰って行く。それは、人によって異なっている食の好みに合わせるのではなく、自分自身の舌を一途に信じているからなのだろう。自信をもって厳選された食材は、い志ばしの料理の美味しさを確かなものとしている。つくり手のこだわりがとっておきの調味料になっているのだ。習慣が節目に「50年も店してるから、(お客さんは)もうほとんど常連さん。それでおまかせコースみたいな」と晴子さんは口にした。い志ばしは和男さんの一代で50周年を迎えた。常連さんのなかには、何十年と足を運んでいる人がいるという。時間の長さにあっと驚いていると、「みんなお客さんもびっくりしてさ、50年もよくやってこれたなってね。本人たちにしてみれば毎日まいにちね、勝負。一生懸命働いてきて、そういう信念でやってきたから、考えてみたらもう50年か、ってね」と、晴子さんはおっしゃった。私の年齢を2倍しても追いつかない年月を商売に費やしてきたというのに、思いの外あっけらかんと話すようすにきょとんとしてしまう。謙虚な人柄の背後には、誰もができるわけではない実績が隠れていた。同時に、言葉尻の強さからは、経験に裏づけされた自信がひしと伝わってきた。 じゅんわりと出汁のあふれる牡蠣が入った茶碗蒸し、旨味の詰まった鴨肉やとろとろの焼きネギが乗った鴨南蛮など、い志ばしの料理一つひとつが私の心をつかんで離さないでいる。この味を覚えていたいと思ったり、何度でも食べたくなったりするのは、和男さんと晴子さんが「美味しい」料理を抜かりなく提供してきたからだ。これからも身体がつづくかぎりね、と晴子さんは顔をほころばせていた。お二人はあと何年と、自信とこだわりをもってお店をつづけていくに違いない。そう確信して、お腹と心が満たされた私はお店を後にした。* * * 大学4年生の私は、来年から社会人として働きはじめる。何年ものあいだ夢見てきた教育関係の仕事に就く予定なので、期待に胸がふくらむばかりだ。その反面、これから上手くやっていけるのだろうかと、不安で眠れない夜を過ごす日もある。 しかし、まだ見ぬ将来のことを思い悩む時間はもったいない。信念を抱いて今を積み重ねていくことが肝心であり、その結果、知らずしらずのうちに大きな成果をおさめる場合がある。お二人の生きざまがそれを物語っていた。飾らないけれど、こだわりを貫き、誇りをもって毎日の商売を営んでいる。ていねいな毎日は習慣となり、私たちに自負の念を与えてくれる。お二人の頼もしいすがたが私の指針となった瞬間だった。辻口いづみ(地域社会学科4年)=文・写真32頁、33頁の写真はいずれも2022年10月2日に撮影しました。
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