113号HP用
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17◁手すりに手が届かないほど高い鉄棒と並ぶ桜の木@ちびっこ広場(2023年1月22日) 男性に、「都留の公園は味気ないでしょう」と言われ、「雰囲気が好きです」と答えると、そうなの、と不思議そうな顔をされた。確かに都留の公園は人がいないことが多いけれど、私はだれもいない公園で想像力を働かせるのが好きだ。いつ来ても人がいない公園の、きれいに色が塗られたすべり台を見ると、この色になる前は何色だったのだろうと考える。そのまま、すべり台の前で立ち止まってしまうこともある。周りは落ち葉だらけでも座るところには葉が一つも落ちていないブランコを見ると、「さっきまで遊んでいた人がいたのだろう」とほほえましく思うこともある。静かにものを見つめることができるこの「雰囲気」が、私が思う都留の公園の魅力だ。居場所としての公園 私が公園の名前について質問したとき、ほとんどの人は首をかしげていた。これは地域の人が公園を名前で覚えているのではなく、場所として覚えているからだと思う。もしかしたら、急に公園の名前について調べているので教えてくれと言われ、驚いたからかもしれない。しかし、正式な名前はわからないと言いつつ、その人なりの呼びかたがあって、公園での思い出などを話してくれた人もいた。公園の正式な名前や表示がわからなくても、自分の体験したことは変わらない。* * * 私のお気に入りの三さんのがわノ側公園は、道路と道路をつなぐ裏道の役割をしている。遊具はなく、道の両側に梅の木が並び、三つのベンチと中央に雨宿りができる机とイスがおいてある。そこでお昼休憩をしていると、二人の幼い男の子とその父親が通り過ぎた。男の子の一人が「公園どこにあるの〜?」とお父さんに聞いていた。やはり公園といえば、草地に遊具がおいてあるイメージが強いため、ここが公園だとは思わない。私も「三ノ側公園」と名前が彫られた石柱が目に入るまで、ここが公園だとは知らなかった。男の子の言葉を聞いて、自分も公園の名前を気にとめず、場所として捉えていることに気づいた。 公園は名前を持っていなくても、その人にとって居心地の良い「場所」としての役割を持っていれば、それで十分なのだ。すぐにでも公園で遊びたそうにうずうずしている男の子を見て、都留の公園を必要としている人がいることに嬉しくなる。ここからもう少し歩くと可愛いらしいウサギの遊具がある公園があるよ、と教えたかったけれど勇気が出なかった。 今、この男の子にとっての公園は遊び場であり、私にとってはお昼休憩をする場所だ。お昼休憩を終えて次に向かう公園は、私にとってどんな居場所になるのだろうか。原口桜子(学校教育学科1年)=文・写真

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