114号HP用
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繰り返す。徐々に竿の扱いに慣れて気持ちに余裕が生まれたのか、竿を握る手に水の流れを感じられるようになってきた。水は上流から下流へ流れているだけでなく、川底と水面のあいだをうねるように動いている。魚をおびき寄せるように竿先を動かすことはせず、釣り糸で水の流れを撫でるようにして、できるだけ自然に任せて釣ることにした。釣りを通して自分を知る気づくと午後1時前だった。何も釣れていないが、とにかく今日は釣りを楽しんで、釣れたら運が良かったと思うくらいの心持ちでいようと思った。エサがなくなったのでいったん下流に戻り、今度は自分で浅瀬にエサを獲りに行く。エサを探していると、下流から歩いてきた釣り人に遭遇した。いそいそと石をひっくり返す私を見て、「エサ釣りなんですね」と声をかけてくれた。魚影すら見つけられていない私は、すがる思いで「この辺は何が釣れますか」と釣り人に聞き返す。「イワナやヤマメはよく釣れますよ」と答えてくれた。魚が釣れる希望が見えた。釣れなくても楽しめればいいと思っていたけれど、魚を釣りたいという思いは消えていなかったようだ。40分ほどかけてようやくエサが10匹近く集まった。さらに上流で釣りをするため、より長い竿を作ることにした。竹を選び、竿を作り直す。竿をもって目的の場所に移動するまでに、糸を4、5回草木に引っ掛けた。やはり長いと扱いが難しい。上流でも魚のすがたは見当たらず、透き通った水の底の石しか見えない。疲れからか、狙った位置に針を落とすことができなくなってきた。水の流れが強かったため、下流へ戻って釣ることにした。帰宅する時間を考えると、これが最後のチャンスだ。魚がエサをつついているのが竿越しにわかる。針を流していたときとは違った手のひらの感触に、これまでにない緊張を覚える。手では確かに魚がいるのは確認できるが、すがたが見えない。針をつつかれた拍子に引き上げてみるも、魚はかからない。同じ場所に立ちながらも針を落とす場所を変えたり、何回か針をつつかれるまで待ってみたりなど、できる限りの工夫をした。何回も針を流し、40分経って小さな魚がかかった。ぴちぴちと手の上で跳ねるアブラハヤを見る。はじめて魚を釣った嬉しさよりも、こんなにいきなりかかるのかという驚きのほうが大きかった。気づけば釣りを始めてから5、6時間ほど経っていたが、「やっとかかったか」とは思わなかった。釣りはひたすら待つものだと心得ていたし、何よりも、川が流れる音と鳥の声を聴きながら、竿を通して水と通じ合っている感覚がとても好きだった。釣りの知識や経験は浅いけれど、静かな空間でぼうっとするのが好きな私の性格は、釣りに向いているのかもしれない。釣ったアブラハヤを川に戻すころには、冷たい夕風が吹いていた。帰り道、行きで通った水路を見て、「ここにいたニジマスのほうが簡単に釣れたのでは」と思った。「待つ」楽しみも、魚を釣りたい意欲もある私は、次の釣りも心から楽しめるはずだ。きっと先人たちも、釣りを通して自分の素直な感情と向き合っていたのだろう。この釣竿が、私の正直な気持ちが映る水面と私自身とを繋ぎ、気づかなかった思いを伝えてくれる。原口桜子(学校教育学科2年)=文・写真写真はすべて2023年4月29日に撮影しました。no.114 Jul. 2023 1414
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