116号マスターHP用
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1010no.116 Mar. 202410①田原橋の近くにある家。この家の下  を川が通っている②川岸に鉄骨を渡して、その上に家を  置いている①②※歩いた道を点線で表していますNおかじま300m200m100m0富士急行線桂川国道139号線普門寺興譲館高校●鹿島屋の跡地●田原橋家中川●家の下を川が通っている家(写真①)女工さんたちの明るい笑い声が聞こえてきそうだ。家中川は、「なきゃいられない」くらい生活に欠かせない川だったと栄子さんはおっしゃる。毎日の生活と仕事の両方を支える存在として、暮らしのまんなかに家中川はあったのだ。かつて、川は整備されておらず、富士山の岩盤で川ができていたという。そのため水量が多くなると水が溢れてしまい、家まで入ってきたこともあったそうだ。その後、市に整備を申請したのだという。家と川との距離が近いからこそ、恩恵だけでなく水害もあったのだろう。暮らしを守るためにだんだんと形を変えてきた結果、今の整備された川にたどり着いたのだ。そう思うと、つめたい印象のあるコンクリートにも愛着がわいてくる。与よさの謝野晶あきこ子が見た家中川後日、田原にあるニコットの向かい側に、与謝野晶子が詠んだ短歌の碑を見つけた。「八月の富士の雪解の水湛へ甲斐の谷村を走る川かな」富士山の雪が溶け、家中川へと勢いよく流れるようすが歌から想像できる。この短歌は、1925年に出版された『瑠る璃り光こう』という歌集に収録されている。本学図書館に刊行当時の『瑠璃光』があったので、借りて読んでみた。封筒に保管された本を取り出すと、かどの印刷がとれていたりシミがあったりと、見た目からも長いあいだ読まれてきたことがわかる。色あせた紙に印刷された短歌を何度も読み返す。本に刻まれたことばが、家中川が本当に存在したことを証明してくれているようだ。歌集と私とは接点があるわけではない。しかし、歌集のなかに「谷村の川」として家中川の存在が書かれていることで、急に身近に感じられるのがふしぎだった。彼女が歩いた当時のまちと私が歩いた今の谷村が、家中川の存在を通してつながっていく。*  *  *都留を流れる家中川は、長いあいだ人びとの生活を支えてきた、都留にとってなくてはならない川だった。川をたどると誰かの暮らしが見えてくる。地図に載っていなかった家中川は、少しずつすがたを変えながらも人びとの記憶に残り続けていた。家中川は、まちの昔と今をつなぐ道しるべのような存在だったのだ。川に囲まれたこのまちが、さらに好きになった。谷上碧(地域社会学科1年)=文・写真このページの写真はすべて2024年2月9日に撮影しました。

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