116号マスターHP用
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no.116 Mar. 202418割烹着と下駄すがたで準備にとりかかる女性たち(1967年5月13日)「お祭りの日が近づくと、まちの人や講の人が集まってきて、みんなで準備したんですよ。女の人は慣れた手つきで。はやいこと、はやいこと」と幸子さんは懐かしそうに話し始める。お祭りの準備はすべて手作業で行ったという。幸子さんを含め、女性はお供そなえもの物の落らくがん雁を包んだり、「火の用心ふきん444」を畳んだりする作業、お札の準備、食事の用意をしたという。多いときは1200人分のものを用意したらしい。「子どもたちもお手伝いをしに来たり、80代のおばあさんが楽しみにして来たりもしていました。作業をしながらお話をたくさんして」と幸子さんの言葉から、お祭り前の賑やかなようすが浮かんでくる。「あそこのお稲荷さんの小山から子どもが走って降りてくるところなんて、ビー玉が転がってきているみたいだとみんな言っていました」。ちょうど窓から赤い鳥居が見えていた。今は少しだけ場所が変わっているが、高いところに儀秀稲荷のお社がある。あの坂道のことかな、と想像がふくらむ。幸子さんは、写真を指さしながら、この人はこんな人で、と私が質問をするまでもなくたくさんの思い出を話してくださった。一緒に当時の写真を見ながら、「でも、火事がきっかけで出来たお祭りなのに、こんなに楽しそうなのは少し不思議です」と私が言うと、「亡くなった人がいなかったから。お祭りが始まって、まちの火事も減っていった気がします。あの当時は娯楽もないし、みんなで集まることがいいことだったと思います」と幸子さんは話した。このまちは、大火を辛い経験として引きずるのではなく、むしろ、みんなが集まる楽しい機会としてとらえているように見えた。文化財だらけのまち幸子さんは、1962年に結婚し、西凉寺のお手伝いをするようになった。幸子さんが都留を訪れたときには、火事の跡は消えて栄えたまちになっていたという。「電車に乗ってこのまちに来たときは驚きました。なんて文化財だらけの場所なんだろうって」と話しながら目をきらきらと輝かせる。谷村は商業をする家が多かった。有名なのは織物業と染物業だ。それから、当時では珍しい色鉛筆が手に入ったという。「蔵を持つ家も多くて、火事で焼け残ったところもまだありますね」と現在のまち並みにも当時の面影が残っていることを教えてくださった。お祭りを行ういっぽうで、三町商店街では「『十とみ三』の市」が開催していた。どのお店も張り切って店先に商品を並べたという。「13」という本来なら忌み嫌う数字を「とみ44」と読みかえるユニークな発想からは、不吉なことを前向きに捉える谷村の人びとのエネルギーち(1967年5月13日)割烹着と下駄すがたで準備にとりかかる女性たすがや製菓店の落雁火の用心ふきん 配られたお札

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