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菊地わさび園   の歩みはじめて都留を訪れたときに、宿泊した旅館へ向かう道で、菊きくち地わさび園の看板を見つけた。私の地元には、わさび園がなかったため、その看板が強く印象に残っていた。わさび園ってどんな場所だろう。そこで、菊地わさび園を訪れることにした。はじめてのわさび園9月10日、駅から歩いて菊地わさび園まで向かう。蒸し暑いため、木陰を探しながらゆっくりと歩みを進める。わさび園が見えてくると、とたんに涼しくなってきた。どうして急に涼しくなったのだろうか。不思議に思い、あたりを見回してみる。道の左側にある崖から水が湧き出ていた。湧き出た水のおかげで涼しく感じたのだろう。わさび園の駐車場には「ようこそ!!菊地わさび園へ」と書かれたカラフルな看板があった。暑さで足が重たかったが、その看板を見て元気が出てきた。わさび園のすぐ隣に建てられた小屋へ向かうと誰もいない。すると、畑の奥から3代目の菊地冨ふみお美男さん(57)が、「お待たせしました」と大きな声で言いながら走ってきた。はじめての取材で少し緊張していたが、菊地さんの明るい声を聞いて、緊張が和らいだ。ふり返るわさび園を訪れる前に菊地わさび園について調べて、創業100年を超える老舗のわさび園だとわかった。わさび園が今まで、どのように歩んできたのか知りたいと思い、菊地さんにたずねることにした。わさび園を創業したのは、菊地さんの祖父だという。旅行中にわさび園を営んでいる人の話を偶然耳にしたそう。そのときに菊地さんの祖父は、わさび園は成功するのかもしれないと考え、菊地わさび園を大正7年に創業した。創業したばかりのころは、山の一角に作った2坪しかない小さな畑でわさびを育てていたという。そのため、戦争のさなかでも畑には大きな被害がなかったそうだ。現在の畑は2100坪もある。これだけの畑を作るのは大変な労力が必要だ。山を拓ひらくためにダイナマイトを使用していた。菊地さんは小学生のとき、よく畑に遊びに行っていたそう。しかし、「今日は危ないから、畑には近づかないように」と菊地さんの父から言われることがあった。ダイナマイトが日常で使われていたなんて、私には想像できない。菊地さんは、小学4年生から祖父や父とともに農作業を行っていたそう。高校卒業後は、わさび園を継がずにサラリーマンとして3年間働いていた。しかし、わさび園の経営が難しくなったことで仕事を辞め、農業の道に進むことわさびの成長の妨げになる雑草を、菊地さんが一つひとつ手作業でていねいに取り除いている(2024年10月19日)

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