フィールド・ノート No67
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11分の思い描いたものを彫りだしていく経験をした。それは私にとって木と向き合い、そのことで自分と向き合う、大切な時間だった。大学に入ってから、そうした時間をもっていたいと思いながらもずっと遠ざかっていた。 鑿で彫った跡の、木のつややかな、硬質な輝き、捨てるのがもったいないくらいの一つひとつの削りくずの美しさ、一彫りひとほり自分の手で彫り進めていく充足、たちのぼる木の香か。そういったものが、Studio Y.E’Sを訪ねて再び目の前にあらわれた。 お二人のお話を聞きながら、自分の思いが重なり、驚いていた。私は技術や経験もない素人だ。けれども木を「時間の旅人」という有馬さんや、「木は息をしている」というえみこさんの、木について楽しそうに語るようすからは木への親しみ、愛着のようなものが伝わってきて、私は自分の木に対する思いや充足を思いだしていた。経験がなかったり技術がなかったりすることは、木と対するときに些細なことにすぎないのかもしれない。そんな違いを超えて、こうしてお二人のお話に共感し、わくわくすることができて嬉しかった。かに入ると壁にたくさんのクランプ(作業するとき、材が動かぬよう押さえる道具)が吊るしてある。台の上には使いかけの鉋かんなと鑿のみ、金槌、仕上げに塗るオイルの入った丸いケース。オイルは材の水分が蒸発するのを防ぎ、くるいをでにくくする。材を乾燥させるための部屋にはヒノキの板材が寝かせてあり、暖かな部屋いっぱいに木の香りが満ちていた。「木は時間の旅人」 木でできた家具は、使っているうちに磨かれて、つやつやと輝きを増していく。暮らしのなか、長いあいだ使われるなかで、木の内側の美しさがあらわれてくるのだ。 有馬さんは「木は時間の旅人」という。立ったままのかたち。家具になったかたち。姿を変えて、長い時間の旅をする。 木は倒れて死ぬのではない、まだ生きている。伐って、材として加工するからこそ見える美しさがあること、家具として使うからこそ、木はより長い時間を生きられるのだということを思った。 私は高校のとき、木工の授業で、ケヤキの板材から器を彫りだしたり、カシの原木から椅子をつくったり、木に触れ、鑿と木槌と自分の手で、自右上:外からみた工房/右下:壁に吊してあるクランプ。長いものから短いものまでさまざまな大きさのものがあった/左:カシやエノキの板材。白地にこげ茶色のマーブル模様のような木目になっているのがエノキ

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