フィールド・ノート68号
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て帰っていいなど、暗黙のルールがあったそうだ。 昨年の四月、サンショウの葉を採りに行ったときのことを思い出す。同行していた井上さんは、山を観るなり「荒れてるねぇ」と口にした。山菜を採る人のなかには、歩きやすいように枯れ木を伐り、下草を刈る人がいる。「荒れて」いたのは、山へ入る人が少なくなっているからだと、井上さんは言っていた(サンショウについては本誌65号を参照してください)。「暗い山」と「荒れてる」山。どちらも人が入らなくなってきている山だ。「工業には手を出さないけど、林業はどうにかしたい。一次産業を中心になんとかしたい。一次産業は人間の生活に直結してるから、消費者も私たち生産者も両方が考えていかなきゃ」炭を焼いて加工し、それを販売する。私から見ると小俣さんの仕事は炭・・業だけれど、林・・業を立て直したいという。私は小俣さんと山に、接点がみつけられずにいたから、その言葉が少し意外だった。山だけでなく、将来的にはもっと大きなサイクルで、川や海、そのかたわらで暮らす人を想って仕事ができたらいい。そう語る小俣さんは、仕事とかかわりの深い「エコ関係の講演会」へ、時間の許す限り参加するという。経験から考える、ということ 炭にする木を伐り出す作業は委託している。けれど、小俣さん自身が山から伐り出すこともある。伐り倒した木が跳ね返ってきて、肝を冷やすこともあったそうだ。私も、授業や講座の一環としてノコギリで木を伐り倒したことがあるから、小俣さんの恐怖は想像がつく。それに、伐り出しには恐怖ばかりでなかったことも想像できる。木を伐ったときに漂う、心地よい香りを鼻が覚えているのだ。 小俣さんも私も、同じく木を伐るという作業をした。けれど、考えていることはずいぶん違う。小俣さんは自身の原体験や勉強した背景の写真:炭でつくった鬼瓦風の板。いかつい顔が凹凸で表現されていること、そして山へ入ることを通して広い視野をもち、そのなかでの木を伐る意味を考えていた。けれど、私の頭にあったのは木を伐る楽しさと、少しの恐怖ばかりだった。 これまで私が受けてきた授業や講座。これを主催した人たちの、話の「趣旨」はどんなものだっただろう。山全体・日本全体で見たときの役割を考えようというものだったけれど、私はそれを忘れていた。なぜだろう。きっとほかの人が感じ、考えたことだったからだ。「趣旨」は自分自身で感じたことでも、考えたことでもない。木を伐ったことがあるから山作業の話を思い浮かべることができた。自分自身で感じ、考えたことは、嬉しい気持ちや恐いと思う心と一緒に、何度も思い描えがくことができる。たとえ頭では長いあいだ忘れていたとしても、感覚が覚えているのだ。それに誰かの話を聞いたとき、自分の経験と重ね合わせれば、その人の言葉はグッと自分に近づいてくる。経験の大切さは以前から感じていたけれど、小俣さんと会い、じっさいの経験に基づいて考える大切さに、あらためて気づくことができた。小俣さんと山を望む

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