フィールド・ノート68号
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33右:くだ巻き。この機械で、横糸を織機にセットできるように巻き直す。奥には、機械類の簡単な修理のための工具がある。 左:くりこし。受注先から送られて来る糸を、くだ巻きにセットできるように巻き直す機械。送られてきた糸を織るまでには少なくとも2つの工程を踏む必要がある。市谷村に移り住んでから50年、ご主人と2人、ここで機織りを続けている。 この土地で原田さんが機織りを始めた当初のことについて尋ねてみると、「昔はこの辺にも(同業者が)いっぱいいた。隣のうちでもやってたよ。でも今じゃ聞かないね、やっぱり仕事が全然ないし」私は原田さんのお話を聞きながら、なんともいえない切なさを感じた。 また、同業者がまわりに少なくなることで困ることもあるそうだ。機械の修理をするのも一苦労らしい。「修理してもらわなきゃしょうがないときもある。でも修理する人ももう年がいってるから。仕事がないから、若い人に『継いで』と言うこともないし」その言葉からも、都留の織物産業が下火になっていることがうかがえた。 仕事の量だけでなく、織物を支える環境も変わってしまった。原田さんも以前は地区の織物組合に参加していたが、今では登録数が少なく、商工会のなかに組み込まれるような形で織物組合があるそうだ。昔はあった組合独自の制度もいつの間にか無くなってしまった。「昔は織機を使うのにいくらかお金がいったんだよ。組合に登録しなければいけなかったし。廃業するときにはお金がもらえたりした。だけど今は登録なんて言わないし、機械を手放すには逆にお金がいるようになった」と言う。昔この近所にあった職業訓練校のように、織物の技術を学べるところも、今ではもうなくなってしまった。また、今でも都留市内各地で目にすることができるクワの木々などから、この土地で以前、繊維産業が盛んだったことはわかるが、現在でもそれを生なりわい業として生きている人を見るのは難しい。 「あと何年か分からないけど。元気なうちはね」今は受注の量も減り、大きな収入を得られるというものでもなくなっているのだろう。織機は3台くらいないと、それを糧に生活することはできないそうだ。だが原田さんは織機を1台に減らした今でもずっと織物を続けている。そのお話から私は、原田さんが機織りを単なる仕事として扱っているわけではないように思った。生活の一部として、機織りが位置づけられている。   原田さんにとっての「織物」は何事にも替えがたいもののように思えた。自分が自分であるために必要なもの。それが原田さんの織物なのだ。 取材の帰り、私は、原田さんにとっての「織物」は私にとっての何にあたるのかと考えた。気づかないほど身近にある大切なもの。無理に意識するでも、特別扱いするでもなく、生活のなかでごく自然に向き合っていけるもの。そのようなものに、いつか私も出会いたい。          持田睦乃(社会学科2年)=文・写真原田さんのご自宅と工場がある路地。初めて訪れたときは、ここに工場があると思えなかった

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