FN70号
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23から導いたものでしょう。貞一さんの判断と技に稲はどのように応えるのでしょうか。今から生長がたのしみです。         ◇ 貞一さんの水田からは大学裏の尾崎山が一望できます。そして尾崎山を指しながら、むかしの山仕事について語ってくださいました。冬期は毎日のように尾崎山に通っていたので地形の細部まで覚えているそうです。 伐採した木の運搬のために1943年から1965年ころまで馬とともに稜線あたりまでよく登ったと言います。馬で木材を山から運び出す仕事をこのあたりでは「ズルビキ」と呼んでいます。十日市場だけでも当時9人ほどがこの「ズルビキ」をしていたそうです。そして現在の田原の滝付近に、マツやスギ、ヒノキ、線路の枕木に使うクリを運び出したようです。 木材を運び出す道は、地主に迷惑をかけないようたいてい土地と土地との境界を縫うようにつくられました。たぶん今でもその跡があるはずだよ、と馬道の位置を教えてくださいました。 私はさっそく馬道の今を確かめるために尾崎山に向かいました。アスファルトによる照り返しが厳しい道路とは異なり、森のなかは適度に湿り気を含んだ風が吹き抜けていきます。森に入り20分ほど歩くと、山道に沿うようにつづく幅2mほどの窪みに気づきました。これが貞一さんの言う馬道の跡です。そのように教えていただかない限り、この窪みがどうしてできたものなのか私にはまったく分からなかったにちがいありません。貞一さんは山道を、馬は木材を曳きながらその脇を歩いたのでしょう。人が山仕事で行き交い賑やかだったというこの森の当時のようすが目に浮かぶようです。 尾崎山の馬道は、役目を終えてからすでに50年近くが過ぎようとしています。いまでは山道との区別もはっきりしません。馬が木材を運搬してできた道には落ち葉が厚く積もり、堆肥場のようになっていました。そして良質な土ができつつあります。ミミズも豊富なのでしょう。モグラのトンネルが縦横に走っています。 貞一さんはこの「ズルビキ」に決して巨大な機械やエネルギーを使いません。稲作もほとんど一人でこなしていきます。自らがコントロールできる身の丈にあった技で自然と接することが、ゆたかな自然の再生へとつながっているのでしょう。 稲の生長のこれからを見据え対応する力があるのも、長い時間をかけた自然との関わりのなかでていねいに観察する目を鍛えてこられたからでしょう。日々の散歩でもこうした力は養えるはず。日ごともっと広く地域を歩け、と背中を押されるようにして尾崎山の森にわずかに痕跡を残すかつての馬道を歩きました。これまでは田に水路をつくっていた(2009年6月8日撮影)貞一さんは今年、田に水路をつくらなかった(2011年7月27日撮影)

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