FN70号
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FIELD.NOTE26初取材6月20日(月)曇り。夕方、友人から自転車を借り、学校を飛び出す。取材の目的は都留市在住の奥おくたかゆき隆行氏の写真集『奥隆行写真コレクション』に掲載された写真「仲良し」(27頁中段の写真)についての取材だった。それには小高い場所に位置する西涼寺の前で、はにかんだ2人の女の子が写っている。彼女たちがカメラからわざと目線をはずしている姿が愛らしい。古い写真を見ていると、現実味のないものにも思えたり、何だか安心するような懐かしさも感じたりする。今回の写真もそうだ。見つめていると、純粋にその写真について知りたいという気持ちがわいてきた。今回の取材先は、都留市駅近くの西涼寺のそばにお住まいの小こいけとしなり池利成さん(73)宅。緊張で呼び鈴を鳴らすことに躊躇していたところ、時間ぴったりに家から出てきて、お宅へ迎え入れてくださった。さらに姉の喜きみこ三子さん(77)にもお話を伺うことが出来た。撮影時期は寺門が残っているということで大火前だという。大火の記憶へここでの大火というのは、昭和24年に起こった谷村の大火のことである。当時小学生だった小池さん姉弟。大火が発生した日には遠足を控えていたという。小池さん宅は、大蔵が残っただけで、家は全焼した。大規模な災害であったにも関わらず、犠牲者が出なかったのは不幸中の幸いだろう。鎮火後、町中には手押しポンプが落ちていたという。現在と比べて消火効率がよいとはいえないが、自力で水を汲み上げて消火する方法が当時は多く採用されていた。火の手は、人の手による消火スピードよりも速い。手押しポンプの残骸は、人びとが命を守るために、消火活動を投げ出してでも避難するという勇敢な選択をした「証拠」とでもいえるだろうか。町にあった池のなかの鯉は、大火で茹だってしまったという。その後の食糧難で、死んだ鯉を食べた人もいるそうだ。極限状態におかれた人々の行動が、私にとって遠いことのように思った。大火後、小池さん一家は唯一残った大蔵のなかで家族5人が暮らした。困ったのはトイレだったそうだ。庭に穴を掘って、焼け残った板で小さな小屋を建て、しばらくのあいだはそこで用を足していたらしい。さぞ不便だっただろう。家族との思い出が詰まった「家」を失ったときの感情を別にして、淡々と大火のお話をされる小池さん姉弟の姿はたくましい。私はお話を聞いているあいだずっと、お二人が大火の発生した昭和24年を軸にして、それぞれの記憶をたどっているような印象を一枚の古い写真から広がった、谷村の大火の記憶。当時を知る都留在住の方にお話を伺った。 反保智栄(英文学科3年)=文・写真現在のようす。西涼寺前いちまいのから写真
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