FN70号
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27受けた。そして、お二人の話の内容が衝撃的であったのもそうだが、記憶の鮮明さにただただ、感心していた。町の変化現在、大火の面影はあるのだろうか。私は最後に「昔と都留の町は変わりましたか?」と尋ねると、「町並みはほとんど変わっていない」と利成さん。(利成さんは大学進学で東京に引越し、13年前まで都留を離れていた)強いて言うならばここ10年ほどで、新しい市立病院ができたこと、都留文科大学前駅ができたことくらいだそうだ。利成さんにとっては町の景観よりも、都留で暮らす人びとの変化のほうが印象的なようだ。昔は近所付き合いが積極的だったが、今ではそれが無くなりつつあることが寂しいという。小池さんのご家族がかつて「小池マンション」という下宿を経営されていた昭和30年ごろから昭和の終わりにおいても学生の変化を感じていたようだ。昭和の半ばには一つ屋根の下で家族のような交流をしていた学生たちも、昭和の終わりが近づくと雰囲気は変わり、干渉を好まない学生が多くなっていったそうだ。「つながり」ふと時計に目をやると2時間が経とうとしていた。利成さんの奥様のカツ子さんがいれなおしてくださったお茶をいただきそろそろお暇いとましようとした時、利成さんがまたおいでなさいとおっしゃった。私は素直に嬉しくなった。家を出て、今回の話のきっかけになった写真の撮影場所、西涼寺の前に立って左:喜三子さんと一緒に右:西涼寺前の小径みる。昼間の暑さが遠のいている。私は、伺ったお話をまだ全部は咀嚼できずにいた。ただ、新しい出会いの新鮮さのようなものにどきどきしていた。自分の足で現場に行き、そこの空気を吸い、雰囲気をとらえることで、その出会いの喜びをあじわうことができたように思う。取材中、相手が本当に伝えたいことは何か聞き出すことの難しさを痛感していた。もしかすると小池さんが伝えたいことと、じっさいに口から出る言葉はすこしズレがあるのかもしれないと感じた。だからこそ、聞く側の私が語り手の表情やしぐさから、自分との「つながり」を想像する力がいると思う。今回は、写真が撮影された当時に想いを馳せて初めて、小池さんの想いが伝わってきた気がした。それは都留の町と人との「つながり」、都留の過去から現在への「つながり」、また、都留の人びとと私自身の「つながり」を実感できたひとときであった。◇中段の写真…「仲良し」昭和22年、西涼寺前で撮影。寺門は大火で焼失(本学フィールドミュージアム部門『奥隆行写真コレクション』より)
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