FN70号
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がよく見え、小さな生きものに目がいっていた。二度目と三度目は、その緊張感がなく、じっと目を凝らすこともない。見えない部分も多くなったかもしれないけれど、その代わりにゆったりと川の流れの涼しさや木漏れ日の柔らかさに身をゆだねることができた。 この日は大沢で養魚場を運営されている佐さとう藤和かずお男さん(64)に、少しお話をうかがうことができた。佐藤さんは、ご自身のおじいさんが始めた養魚場を受け継ぎ、ここでヤマメを育てている。「本当は本流の方がいいんだけどね。水が多いし。ここは水がちょっと冷たすぎる」と、生いけす簀の魚にエサをやりながら仰っていた。「でも涼しくていいですね」という私の言葉に、「そうだねえ」と答える佐藤さん。子どものころは本流の方で、石で水をせき止めてプールのようなものを作り遊んでいたそうだ。昔の子どもたちは、涼むことと遊ぶことを同時に目的にして沢を訪れていたのだろう。◆ 取材のなかで、「涼むって何だろう」と、幾度となく考えた。まちのなかにも、プールや冷房の効いた部屋のように涼しい場所はたくさんある。ふだん、あつい場所から冷房の効いた部屋に移動すると「冷房って便利だなあ」と思う。でもその当たり前のように用意された涼があることで、沢で感じたような季節の移ろい、「あつさ」以外のものから得られる「夏らしさ」を、私は感じられなくなってしまった。 自然のなかには、人間のために用意された「涼」はひとつとしてない。用意されたものじゃないからこそ、そこには「涼」だけじゃない何かがある。私にとっては「安らげる時間」であり、昔の子どもにとっては「遊び」だった。 まちでの「涼」では得られないものはほかにもきっとあるはずだ。それを探しながら、これからの夏は「まちをはなれて」涼んでみたい。大沢の風景(2011年7月10日撮影)9特集:涼む

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