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FIELD.NOTE10この山にも自由に入っていった。落ちている枯れ木については、それを拾う子どもをとがめる人はいなかったという。 いろりで燃やす木は、針葉樹でいえばスギやアカマツの枝、広葉樹ではケヤキ、シデ、コナラ、カエデなどが優れている。また、アブラチャンなどの潅かんぼく木も良い薪になった。逆に、クリやクルミなどはで火力が弱いため、いろりで燃やすには適していない。 「ヤセンマ」に積んで持ち帰ってきた薪は「シタネ」(家の軒下)にうずたかく積んでおく。冬が近づけばどこの家にも見られる光景だった。荻窪さんが懐かしそうに少年期を振り返る。「子どもたちは競うようにして木伐りにいって、自分のシタネにどれくらい木が積んであるか、自慢みたいなとこがあった。そんなことが楽しみでもあったね」。 遊び盛りの子どもたちにとって、薪拾いは面倒な手伝いではなかったかと疑問に思っていたが、そうでもないようだ。競う楽しみや張り合いをもって山に出かけていく子どもたちの姿が、目の前に浮かんでくるような気がした。都留市大野に細野という地区がある。荻窪さんはもともとこの地に生まれ育った。法能に新しく家を建てたのは15年ほど前のことで、当時住んでいた家屋は今でも細野に残っている。 家にいろりがあったのは、荻窪さんが小学生のころ。したがって、話は50年以上前にさかのぼる。暖を取る、その準備 寒くなってくると、炊事や風呂焚きに加え、暖房のために薪を多く使うようになる。本格的な冬を迎える準備は秋口から始まった。「秋になると、山に薪を拾いにいったね。どこの家もそうだった。それは家族でいかないで、子どもたちが連れ立っていったよね」。 薪拾いはおもに子どもたちの役割だった。学校が終わったあとや休日になると、兄弟や近所の友達と一緒に山に入った。鉈なたや鋸のこを持ち、拾った薪を積んでくるための「ヤセンマ」(ショイコ)を背負っていく。細野では「木きき伐りに行く」と言い慣わしていたが、じっさいは枯れ木など落ちている木を拾い集める作業だ。拾う場所は自分の所有地を含め、ど昔はどのように暖を取っていたのだろうか。家のなかに造られた「いろり」が、おもに暖房の役割を果たしたことは知っていたけれど、具体的にどれくらいの大きさでどんな木を燃やしていたのか、よく考えたら知らないことばかりだった。10月15日、都留市法ほうのう能にお住まいの荻おぎくぼ窪久ひさお夫さん(60)に、いろり端で生活したころの話をうかがった。取材風景。丁寧に教えてくださる荻窪久夫さん撮影:前澤志依 (2011.11.19)暖を取る〜いろり端の記憶〜「ヤセンマ」(ショイコ)・大人用と子ども用があった

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