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とる11昔はそんなに話すこともなかったけどね」。 加えて「もう50年も前のことだから、あんまり覚えてないけど」とはいうものの、いろりを囲み箱膳で食事したことや、保存食としてヘビや川魚を焼いたこと、いろりのふちで寝ていた猫がよく炉のなかに落ちて火傷した話など、数々の思い出にあふれている。静かな面持ちでゆっくりと話すその視線の先に、荻窪さんはいろり端で過ごしたころの風景を眺めているようだった。 いろりはその後、炭の掘り炬燵に姿を変え、ついで炉の上には板が張られて電気炬燵を置くようになった。今となっては薪が燃え、鉄瓶から湯気がたつ往時の姿を目にすることはできない。けれど、当時を知る人からじかに話を聞くことで、いろりがどのようなものだったか、いかにして暖を取っていたのかをありありと思い浮かべることができた。これは、ただ史料をひもとくだけでは得られない貴重な経験だったと思う。薪拾いにいく子どもの気持ちや、火に当たったときの感情といった実感をともなう記憶が、かつての生活の一端をより鮮やかに描き出してくれた。 冬になると、亡父・祉よしさんが炭を焼いた。当時、林業と養蚕で生計を立てていた生家にとって、炭焼きは冬のあいだの貴重な収入源となった。いろりでは薪とともにこの炭も併用する。もちろん伐採した木から薪を得ることもあったが、生なまき木を伐って薪にした場合は炭と同様、おもに谷村などの町場に販売することが多かった。だから燃やすにしてもその売れ残りを使う程度で、暖を取るにも炊事をするにも拾ってきた薪だけで充分に足りていたそうだ。いろりは「ヒジロ」と呼んだ 「昔は『いろり』とは呼んでなかったね」。荻窪さんがそう切り出した。どうやら、その土地の呼び方があるらしい。「この辺では『いろり』なんて言わないよ。『ヒジロ』(火代)っていうんだよ。いろりという言葉は後から知ったんだよね」。 いろりは、どこでも一様に「いろり」と呼ぶものだと思っていたので、正直とても驚いた。ほかにも自じざいかぎ在鉤を指す「オコウジンサン」(お荒神さん)という名前や、さきに触れた「シタネ」など、聞きなれない言葉がいくつも連なる。そのたびにどんな字を当てるのかを尋ね、ときに一緒に考えながら、話題はさらにいろり端の思い出話へと進んでいく。「秋から冬にかけてねえ、ヒジロに火が入ったってのが一つの喜びだった気がする。ヒジロで(薪を)燃もし始めて、あぁこれであったかくなるなって……」。 じっと一点を見据えながら、少しずつ記憶を手繰り寄せるように荻窪さんは話を続ける。「まあ、懐かしいよねえ。当時はテレビもなかったし、ヒジロを中心に一日の話をした。牛丸景太(国文学科2年)=文・図いろり端の略図「オコウジンサン」 (自在鉤)鉄瓶「カカ座」 (母親や祖母の席)「横座」 (家長・父親の席)足を置く場所・猫がよく寝ていた・炉は一辺が約5尺の 正方形。深さは1尺 ほど ※1尺=約30.3cm鉄製の固定具・長さを調整し固定する「マッコウブチ」・堅くて燃えにくい 柿の木を用いたいろりの上には「火ひだな棚」と呼ばれる棚が吊り下げられ、保存食を置くなどして使用していた。大きさは炉とほぼ同じくらい・
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