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…… (略) ……丹念に織り上げられ三丈のみごとな内織りとなった母の手に渡りねんねこばんてんに仕立てられた私の弟を子守り 私の娘を子守りご用を済ませたはんてんは母の手で丁寧に解きほぐされ接ぎ合わされ 京染めに出された黒字に紅と銀のかすり模様の反物に生まれ変わり「昭和40年5月17日 くすのき」と片置き札をつけたまま私に手渡されたが三十余年 箪笥の底で眠らされたままだった祖母が他界し 母が他界し繭玉のなかの虫がはるか彼方から私を責める私は未熟な手で上着を縫い始める̶̶̶̶ 遠藤静江「繭を着る」より上の写真:「くすのき」の作務衣と札ったときにみんなが「あんたがもらえ」って言って寄よこ越したわけ。で、私も母のものだから、パッなんて捨てられないし、もらってきた。それで(タンスを)開けてみたときに、「ああ、これは母が遺してくれたものだから、なんとかしなきゃね」ってフッと思ったとき、一番はじめに作ったのがね、あの、「作さむえ務衣」だったの。 (作務衣を見ながら)一番先にあれ(リフォーム)したのがこの布なの。これがね、昭和18年ごろね、私が小学校5年生の時に、これはこの色じゃなかったの。これはブルーの格子の、赤ちゃんをおんぶするときの「ねんねこ」だったの。赤ちゃんをおんぶするときの着物のようなものだったの。これで、私の弟をおんぶするときに「おぶいばんてん」って言うんだけど、それを着ていたの。ところがその子が大きくなってから、半はんてん纏はいらなくなっちゃったの。そして、それはどちらかというと、外出用の半纏にしておいたの。だからきれいだったのね。それで、跡取りがお嫁さんをもらって、着てくれると思ったら着てくれないの。流行らないから。そしたら、「京染め」に出したわけ。全部解いて。そうして       遠藤静江さん (えんどう・しずえ)1932年11月23日生まれ。1953年から1989年まで小学校の教師をされていた。その後、リフォームの講座を開きファッションショーをおこなったり、都留詩友会を発足させて詩誌『樹』を年に6回発行したりと多岐にわたって活躍している。好きな食べものは中華料理と甘いもの。花(サザンカ)と題字は遠藤さんによる。染め直しをしたのがこれなの。 その時ここにね、「くすのき 昭和40年5月17日」にこれを染めに出したわけ。で、この札が付いていて、反物になったものを、私にくれたわけ。これは「くすのき」っていう柄なのよ。(札の)ここにね、「小林静江様」って、私の名前(旧姓)が書いてあるの。母が、私にくれるようにしたわけ。で、私はこれをね、8年前まで、タンスの底へ、置いといたの。これを引っ張り出したときに、これは元々母が私にくれようと思っていたんだなあと、それで私は、母からもらったこれを、そのまんまにしといちゃいけないからっていうことで、これを作ったの。その時はどちらかっていうと、洋服っていうより着物に替わるものをつくろうと思って、これを作ったの。252525

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