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12月17日、本学卒業生の西丸尭宏さんから巣をもらう(写真②)。尾崎山で「木をゆすったら落ちてきた」。巣材をみたり、巣のつくりを調べたりして、標本にしてもいいし、飾ってもいいとのこと。そんなふうに簡単に見つけられるものなのか・手に入るものなのか?疑問を抱くいっぽう、巣をもらったのがとてもうれしかった。今まで巣に漠然とした興味はあっても、ただ見つけるということ以上に、その先̶̶それを採るとか、調べるとかは考えたこともなかった。自分も見つけてみたい。自分で手に入れてみたくなる。12月19日朝7時半、うぐいすホール横から入り楽山公園に下りるルートで山を歩く。簡単に見つけられるとは期待していなかったが、山を下りているときに、一緒に行った砂田真宏さんが巣を見つけた(写真③)。ちょうどそれは私が別のものを指差した、すぐそばにあった。私にもその巣は視界に入っていたはずなのに、なぜ気がついたのは別のものだったのか。一人では見つけられないものがあるということを意識した。1月16日午後2時半。十日市場の散歩の帰り、麦のようすを見に行った中屋敷でたまたま巣を見つける(写真①)。葉の落ちた広葉樹の、3mほどの高さの枝先にひっかかっていた。ゆすったら落ちてきた!思いもよらない収穫におどろく。これまでわたしにとってのひろいもの、というとたまたま出会うというのがほとんどで(「ひろいもの」という言葉もそうした出会いを指して使っている)、意識して何かを見つけたいとか、手に入れようとして歩いたり探したりすることはなかった。予期せぬ出会いもとびきりうれしいものだけれど、見つけようとして見つかるということには別の喜びがある。その出会いかたによって、見えてくるもの、関心の広がりかたは違ってくる。人からもらう、という出会いかたも特別だ。自分にはない、もののみかたを知る。自分だけでは目に入らないものごとに出会わせてくれる。今までもきっと見えていたのだろう。けれど、それをそれとして認識していない。よく人と並んで歩くと、見えているものが違うことに気が付く。同じ道を歩いて、同じものが目にはいっていたとしても、目に見えているもののなかから何に気がつくのかということが、つくづく違うのだ。ひろうということ。ただ見つけて通り過ぎるのではない、手に取るという行為は、そのものに関わろうと一歩踏み出すことだ。鳥の巣を採る、という行為はさらにもう一歩意識的に、そのものに近づこうとすることだった。鳥の巣はただ落ちているものをひろう、というわけにはいかないからだ。なぜ採りたいのか、本当に採りたいのか、自分に目を向けることになる。そこから見えてくるのは、自分に「見えているもの」は何なのかということ。何が見えて何が見えていないのか。そして見たいのか。自分の「目」については、まだまだ分かっていないことばかりだ。②2011.12.17尾崎山で採集採集者:西丸尭宏営巣環境:コナラなどの広葉樹林5mほどの高さの枝先③2011.12.24尾崎山で採集(撮影日:12.19)採集者:砂田真宏 ツルが絡まっており、高枝切りバサミで枝ごと採集19
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