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が各教室に置かれていたことを教えてくれます。その焚きつけには「ひで」と呼ばれるマツの根が最適であったようです。「おもっせ」と呼ばれる12月31日には、その「ひで」を地域の小中学生がリヤカーでかき集め、神社で火を焚きます。正月に神社に参拝しに訪れる地域の方々を温かくもてなすためで、当時の子どもたちの大切な仕事だったようです。子どもたちで「おもっせ」から元旦まで、一晩じゅう火の番をしていたとのことでした。転げ落ちたら止まらなくなりそうな、急斜面を耕して畑とする人が棡原では多いですが、「親父と一緒に耕した」という高橋さんの家の前は平らな土地が広がります。ついた屋やごう号は「平」と書いて「てぇろ」。高橋さんの家の前を通る小道のすぐ先には透き通った川が流れています。その小道は「てぇろっ川へ行くぞ」と意気込む子どもたちのメインストリートになっていました。出勤前の「親父」が課す家の手伝いのノルマを、高橋さんは学校から帰ってからこなさなくてはならなかったいっぽうで、川遊びに向かう友だちの姿が羨ましく映ったといいます。つい、ふらりと遊びに加わって、「かじり(銛)」で魚を突く技は「俺がプロ。誰もが、敬ちゃんが一番うまい、と言うと思うよ」というほどの腕前になりました。とはいえ、仕事が終わっていないことが父親にばれると、ゲンコツをもらい、一日じゅう蔵の中に閉じ込められたり、家の大黒柱にくくりつけられたりしたそうです。銛突きの名人である高橋さんも、子ども時代には好きなだけ遊び回っていたというのではなく、厳しい親のもとで働いていたようでした。***「やることがなくてよ」お話を伺った地域の方々が共通して、本音とも冗談ともとれないような調子で言っていたこの言葉が印象に残っています。今では火を起こすのも、その火を維持するのも手間がかからなくなりました。食べものだって車やバスに乗っていけば市街地のお店で手に入れることができます。棡原で暮らすおじさん、おばさんがたにとっては、ご自身が子どもの頃と比べるとずいぶんと「仕事」が少なくなったことだろうと思います。今回お世話になったどのかたも、お話をしていると思い出し笑いが止まらなくなることがありました。楽しいことばかりではなく、ぞっとするようなことなども含めて、時には涙を流すほど笑うのです。暮らしをつくる一つひとつの仕事をこなすのに、今よりも手間がかかったけれども、それぞれの仕事をこなすなかで、子ども独特の感性でスリルを感じたり、びっくりしたり、わくわくしたりする濃厚な体験を重ねてきたのではないでしょうか。過去を振り返って思わず笑いがあふれるのは、それぞれが営んできた暮らしの、目では捉えることのできない豊かさを物語っているのでしょう。現在の棡原小学校(左、2012年2月20日撮影)と昭和30年代の棡原小学校(高橋敬一さん提供)。背景の山(城じょうやま山)の頂上は昔、畑だった。教室から突き出る煙突は石炭ストーブのもの29

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