FN72
42/48

たのしむ手段も一つではない。ピアノを通して音楽をたのしんでほしい、できれば生徒が藤本さんの手を離れても、音楽をたのしむ心を持ち続けてほしい、というのが藤本さんの願いだ。「教室をやめたあとでも『今も弾いてるよ』って言ってもらえれば、嬉しいかな」ともにたのしむ私が小・中学生のころ、学校でも習い事でも、先生というのは自分のなかでとても大きな存在だった。けれど、先生が生徒の人生のなかで関われる時間というのはそれほど多くない。長年にわたって教えていたとしても、習い事の先生ならば、じっさいに生徒と会って話す機会は一週間に1、2回程度だ。前回の取材で書道教室の先生のもとを訪れたとき、先生とは責任重大だと感じた。けれど、使命感や気負いばかりというのも、なんだか違うような気がする。藤本さんは「ちょっと変わる、何かが変わる、それくらいでちょうどいいと思います」と話していた。きっとその通りなのだろう。どれだけたくさんの知識や高度な技術を詰め込んだとしても、先生から離れた途端に「やりたくない」と思ってしまうのでは意味がない。藤本さんとの出会いによって、「ピアノはたのしい、音楽はたのしい」という気持ちが生徒の心に残り続ける。限られた時間のなかで、人の心のちょっとに関わることができたら、どんなに素晴らしいだろう。私はこれまで4回にわたって、都留の習い事の先生を追いかけてきた。どの先生も人と関わることが大好きなあたたかい人で、でもまったく同じ考えをもっているわけでもない。それでは、私のなかでの「教える」とは、「学ぶ」とはどういうことなのだろうか。「音楽ってなくても死ぬわけじゃないですよね。でもそれが逆に人間らしいと思うんです」藤本さんはそう語る。着付けの手順が間違っていても、自然のなかで遊ぶ機会がなくても、きれいな字を書くことができなくても、死ぬわけではない。けれど、人はそれをやりたいと思う。もっと知りたいと思う。人間は動物のなかで唯一自分の意思で学ぶ生きものだと聞いたことがある。けれどそのなかに喜びやたのしさがなければ、一生学び続けることはできない。だから藤本さんは生徒にたのしんでもらうことを何よりも大事にしているのだと思う。今まで出会ってきた先生もみな生徒に教えるなかで、自分自身が新しい発見をしたり上達できるきっかけをつかんだりすることをたのしんでいるようだった。ここまで考えてみて、まだぼんやりとしているけれど、何かをつかめたような気がする。きっと学ぶことの本質はたのしむことで、先生と生徒という関係を通してお互いに教え合うことは、そのたのしみを誰かと共有することなのだ。私は来年度5月に中学校で教育実習をする予定だ。もしかしたら辛いことや大変なこと、想像とは違うことも待っているのかもしれない。それでも、もう私のなかに言い知れぬ不安はなくなった。一緒にたのしみながら生徒と向き合ってみたい、ちょっとでも人と関わることで、教えることの意味をもっと深めていきたい、という気持ちがわいてくる。もしまた「教える」ということを見つめ直すことがあったら、ここに書き残してみよう。それまでは先生という道を前進してみる。帰りぎわ、玄関をふと見上げると喫茶店のような看板が大澤かおり(社会学科3年)=文・写真43

元のページ  ../index.html#42

このブックを見る