FN73号
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裏通りから眺めていた蔵は、「大おおぐら蔵」と呼び分けられていました。「前蔵」と「中蔵」の隙間には屋根をかけて小さな小屋を造り、かつては味噌や漬物などの保存場所として用いていました。 母屋は横山さんが生まれる少し前、大正初年頃に建てられたもので、家が完成するまでのあいだは土蔵で生活したことがあったと伝え聞いているそうです。ゆえに土蔵が建てられたのは母屋よりも前、おそらく百年前後の歴史があると考えられます。むかしは冠婚葬祭をすべて自宅でおこなったため、そのたびに屏風などの調度品、御膳やお椀などが土蔵から出し入れされました。けれど、現在ではそうした品々が必要とされる機会はほとんどなくなったといいます。 「大蔵」は、おもに米などを保管しておく穀蔵としての役目を担っていました。所有している土地を小作農家に貸し、そのお礼として受け取った収穫物を保管しておいたのです。 関東大震災があった大正12年9月1日、当時横山さんは6歳でした。物心がつき始めた頃で震災に関する記憶はほとんど薄れてしまったとのことですが、「ちょうどお祭り(八朔祭り)の日でね、お赤飯を炊いて食べようなんてときだった記憶がありますね」と語ってくださいました。家屋自体への被害もほとんどなく、横山家としてはそれほど大変な思いはしなかったそうです。蔵のなかに潜入 5月10日、この日は「前蔵」と「中蔵」のなかに入らせてもらいました。入口の両側にある厚い漆喰塗りの扉はつねに開かれたままですが、今でも開閉することができます。しかし、一筋縄ではいきません。じっさいに動かすには、勢いをつけ、なおかつ全体重をかける必要がありました。けっして扉を支える金具が錆びているわけではないのです。自分の体を使って動かすなかで、扉そのものにかなりの重量があるのだと気付きました。 二枚ある木戸をあけ、なかに足を踏み入れると、外から差し込むわずかな光を頼り土蔵メモ上:右から前蔵、中蔵、大蔵。子どもの頃いたずらをすると、蔵に閉じ込められることがあったそう。横山さんはそういった経験はないが、親戚の子が一度入れられたことがあるという右下:前蔵の戸前で、重い扉を開閉してみる。扉に施された階段状の加工部分が、左右ぴたりと合わさるようになっていた左下:改修工事をする前の鬼瓦。家のマークである 叶 の文字が入っており、母屋には今でも同じ瓦が葺かれている7
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