FN74号
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FIELD.NOTE34H・D・ソローが『ウォールデン 森の生活』(今泉吉晴訳、小学館)で示唆した散歩のほんとうの意味とは何か。散歩をとおして見えてくるものとは。私たちは歩くことで、変貌する自然やまちの今を記録し、フィールド・ミュージアムのたのしみを報告していきます。今回は、かつて谷村にあった映画館です。第18回谷たにの町・史ふみの里谷村にあった映画館のこと ①  「ヤエイ」と私「ヤエイ」経営者の長女、大森直枝さん・画谷村に住む50代も後半以上のひとならば、かつてこのまちに複数の映画館があったことを覚えているだろう(※1)。いずれも跡形もなくなって久しいが、大人にとって娯楽・遊興の場であった映画館は、子どもたちの暮らしのなかにおいても身近な場所として記憶に残っている。         ◇ 都留市郷土研究会発行の『郡内研究』第6号によると「ヤエイ」は、「谷やむら村映画劇場」というのがその正式名称とある。そして「若松館」がその前身であり、「若松亭」という寄席がそのまた前身であるという。のちに活動写真館として開業し、昭和2年に内藤興業が買収し「谷村映画劇場」と名前を改めたと書かれている( 内ないとうみつなり藤盈成氏 )。これを読み、私の長年の疑問であった「ヤエイ」と「若松館」が一体化した(※1)。 子どものころ3年ほど「ヤエイ」の隣に住んでいた。いつごろそこに越したか定かでないのではっきりしたことは言えないが、小学校の低学年をそこで過ごした。その前は、「ヤエイ」から5分ほどの所に住んでいた。家かちゅうがわ中川沿いの家であった。台所から裏庭に行くとき、ちょっとした穴があり、そこから家中川の川面が見えた。妙にそのことだけは覚えている。幼稚園生になるかならないころのことである。 そして昭和24年のあの大火で生活が一変した。その時に「ヤエイ」も焼け落ちた(※2)。小さかったのでその火事のことは、歳の離れた従姉に連れられて知り合いの家へ富士急線の線路伝いに逃げたこと、空が真っ赤に見え怖かったことくらいしか覚えていない。焼け残ったわが家に親戚の人が来て大勢でいたこと。それがうれしくて幼稚園に行かなくなってしまったこと。時間の経過とともにだんだんに人がいなくなっていく寂しさを感じてもいた。 その後どのような経過で「ヤエイ」の隣に越したのかはわからないし、「ヤエイ」がいつ再建されたのかもわからない。しかし、私が行ったときにはすでに再建されていた。そして昭和27年には映画の上映はされなくなっFIELD.NOTE

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