FN74号
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35益子邦子(都留市上谷在住)=文ていた(※3)。建物はそのまま残っていた。その横の空き地が私たち子どもに遊び場を提供してくれていた。砂利だらけの空き地だったが、子どもにとっては最高の遊び場だった。そこで缶蹴りをしたり、缶を使って竹馬ふうなものを作ったり、その当時、流行った「太陽写真」を焼き付けたりと、学校から帰るとそこに集まり暗くなるまで遊んだ。 「ヤエイ」は、映画館だったが、その当時の子どもにとって映画は大人の見るものという感覚があったように思う。だから「ヤエイ」は、学校に行くときの集合場所であり遊び場だった。遊び疲れるとベンチに座り、本を読んだり、おしゃべりしたりと思いおもいに過ごせる楽しい場所だった。そして、ウィンドウに貼ったままになっているスチール写真を眺めてあれこれ想像したり、野良犬のチョロをからかったりする場所だった。映画が好きだったのは、家のちびネコのミミーだった。なぜかいつも一番後ろの席に座り、じっと映画を見ていた。いなくなると、いつも映画館に迎えに行きながら、ちらっと映画を眺めたりするくらいしか映画館としての「ヤエイ」の記憶はない。【編集部注】※1  谷村に存在した映画館の名称……「谷村座」「若松館」「谷村映画劇場」「大手劇場」谷村の映画館・劇場の歴史について詳細は、『郡内研究』第6号(都留市郷土研究会、1999)所収「谷村座と若松館」(内藤盈成) ※2  昭和24年5月13日に発生した火事。『(昭和27年版)谷村町町勢要覧』(谷村町役場発行 昭和28年3月印刷)には、「罹災区域は谷村町歓楽街の中心地であり、商店街も多く主要施設としては谷村座、谷村映画劇場、都留病院、須藤病院、桂川旅館、弘三館、山本旅館、西涼寺、専念寺、東漸寺、御嶽神社、外各商店など、町内著名のものが多数罹災した」と記録されている。同様に、罹災区域は、下町の一部、横町の全部、栄町の大部分、田町の一部で罹災戸数は全焼・半焼計291戸(333世帯、1544人) なお、昭和27年7月現在で谷村町全町の戸数は2755戸、人口14363人であり、いかに大きな火災であったかわかる。この大火に関する参考文献はほかに、『谷村町大火五十周年記念誌』(儀秀講、1999)※3  『(昭和27年版)谷村町町勢要覧』(前掲)の主要商工名鑑(谷村町主要商工業者名簿)には、映画館は谷村座(横町)と大手劇場(新町)が掲載され、「ヤエイ」はすでに記録されていない。都留市中央1-4「BUONO」から「ヤエイ」跡地をのぞむ(現在は駐車場)。2012年7月31日撮影(北垣憲仁)「栄町銀座通り」(昭和27年版)谷村町町勢要覧より。横町から「ヤエイ」近くの栄町銀座通りをのぞむ

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