FN75号
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昨年(2011年)の2月下旬。都留市文化会館に向かう途中、お寺の山門が覆いに囲まれているのを目にした。きっと、修復中なのだろうと思っていたその門は、街の景観が新たに変化していこうとする姿を表していた。記録を残すうえで大切な心構えや、写真を撮る意義について考え直した、長安寺山門のこと。街なかを散策していると、ときどき古い民家が解体されている場面に出くわすことがある。そのたびに、写真を撮っておけばよかったと後悔する。家屋が取り壊された後の更地を見ていると、街なかにぽっかりと穴が開いたようで、なんだかもの寂しい。長年そこにあった人の営みや郷土史の断片が、廃材と一緒にどこか遠くへ運ばれてしまうような気がしてならない。街歩きの反省 長安寺の山門に目を留めたのは、そうした変化していく街並みというものに関心を寄せ始めたころだった。二階建ての家よりも大きな覆い(素屋根)は周囲を圧倒する存在感があり、かなり大がかりな修復工事なのだと予想した。しかし、事実は私の予想とは違っていた。長安寺のお坊さんにお話を聞いたところ、山門は修復しているのではなく、新たに建て直している、とのことだった。昭和34(1959)年の伊勢湾台風を経験した旧山門は一度倒壊した過去があり、老朽化が進んでいたこともあって、再建の運びとなったという。寺社仏閣の建物といえば、いつまでも修復保存されるものと信じて疑わなかった私は、このとき自分が思い込みをしていたのだと初めて気がつく。街並みは新たに変わろうとしていた。 もしかしたら街を歩いているときも、こうした思い込みのせいで記録を取り損ね、「後悔」している面があるのではないか。そう反省した。建築中の長安寺山門から、私は目の前にあるものを分け隔てなく記録する心構えを問われたような気がした。 変わらないと思っている(願っている)風景でも、後に大きく変化をとげることは十分にありえる。何気ない日常の風景であっても、記録することに後々大きな意義が生まれてくるのだと思う。新築中の山門。大工さんたちが軽やかな身のこなしで作業していた(2011. 5. 14)─長安寺の山門から─新しい山門。東日本大震災の影響を受け、完工は今年の5月となった(2012. 10. 19)牛丸景太(国文学科3年)=文・写真FIELD.NOTE18FIELD.NOTE
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