FN75号
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19いまを記録する 記録する意義については、すでに古い写真たちが物語っている。今年の10月21日、私は古写真に写された山門について尋ねるため、再度長安寺を訪れた。昭和7(1932)年に撮影された写真と、同62年撮影のものとを見比べてみよう。すると、階段のところが大きく変わっているのが見てとれる。62年撮影の写真では、山門の敷居付近の階段がごっそり削り取られているのだ。聞けば、そこには現在では見られなくなった昔の習慣が関係しているらしい。「戦後まもなくのころは、まだ土葬だったでしょ。要するにね、大変だったんだよ」 昨年お話を伺ったお坊さん、花はなぞのみつあき園光明さん(77)がそう語る。かつては火葬ではなく土葬が一般的だった。重い棺を担ぐ人たちには、苦労が多かったという。家を出棺して長安寺横にある墓地へ行くさいは、必ずこの山門を通らねばならない。そこで、棺の担ぎ手の労を少しでも減らすために上の階段を取り除き、平らに整備したというわけだ。その痕跡は山門が新築された現在でも、新しい階段の両端に残されている。 古い風景写真から得られる情報をもとに聞き取りすることで、現在では姿を消した、習慣という側面が顔を覗かせた。古写真が伝えるかつての光景と、じっさいにその当時を知る地域のかたの話。この二つが合わさるとき、両者は厚みをもった一つの記録として結実していく。私はその可能性に期待を膨らませた。  古写真を撮影したのは、いずれもこの土地に暮らした方々だ。二枚の写真が撮影された経緯は明らかでないけれど、結果的に貴重な資料が伝えられてきた。大火や水害などによって現在では見られない光景も、古写真には多々記録されている。人が、建物が、生活が、そこに存在したことをしっかりと後世へ伝えられるなら、古い民家が取り壊されても、街並みが大きく変わっていっても、もの寂しさを感じることはないのかもしれない。 先人がその当時における「いま」を記録したように、私も一人の記録者として街の変化していくようすを追ってみたい。昔の階段の跡。山門の新築にともない、隣には新しい階段が造られた (2012. 10. 19)昭和62年5月20日撮影昭和7年撮影長安寺山門は、その色から通称「赤門」と呼ばれる。古写真はいずれも『奥隆行写真コレクション』所収右:屋根は桧ひわだ皮葺ぶき、あるいは板葺きであったと思われる。門の右手には潜り戸があった。花園さんは子どものころ、階段のところでよく遊んだという左:屋根はトタン葺きとなり、潜り戸はなくなっている。階段が削られたのは伊勢湾台風の前後、昭和30年代だった聞き取りメモ

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