FN75号
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FIELD.NOTE26661954年4月29日、旧谷やむら村町まち、宝たから村むら、盛もりさと里村むら、禾かせい生村むら、東ひがしかつらむら桂村が合併して、都留市が誕生した。「都留市の旧5町村を巡る」では、各地域を渡り歩き、気になる人やモノから、その地の風土を探っていく。第3回は、旧禾生村にある田野倉中野と小形山堀之内を結ぶ役目を果たしている舟場橋に注目した。水の流れと人の暮らしの関係に注目し、舟場橋にまつわる記憶を辿っていく。舟場橋にまつわる人・地域のあゆみ川の流れと人の暮らしは連動している。そう意識しだしたのは、都留市に住むようになってからだ。川の流れは上流から下流へと地域を貫き、その水は農業や工業などの産業を支える役割を担っている。また、町に張り巡らされた水路も、先人が川から水を引くために生み出した知恵である。いっぽう、川の増水や洪水といった水害も、私たちの暮らしと川との強い関係性を物語っている。そんななか、橋に注目したのは、「舟場橋」の名の由来を知ったからである。かつては、地域と地域を結ぶために舟を渡していた場所であったことから舟場橋と名付けられたのだという。川には橋があって当たり前との思いがある。しかし、この話を知ったときにはじめて、橋がない時代には川は地域を分断する境目でもあったのだという考えを持つようになった。舟、そして橋。異なる地域をつなぐその要かなめは、どのような歴史を持っているのか。また、舟や橋が、分断されていた世界に一本の「道」を生み出したとき、それら一帯の地域社会はどのように変容したのだろうか。そんな疑問がふつふつ湧き出したことが、私を舟場橋へと惹きつけるきっかけとなった。舟場橋の歴史 「田野倉の舟場橋のことを知りたいのですが」「それなら、尾おがた県郷土資料館の館長さんが一番詳しいよ」。いつもお世話になっている都留市郷土研究会の内ないとうやすよし藤恭義さん(81)に伺ったところ、都留市田野倉にある尾県郷土資料館の館長を務めている山やまもとつねお本恒男さん(76)を紹介していただいた(山本さんについて詳しくは本誌58号をご覧ください)。 尾県郷土資料館には、舟場橋の古い写真が3枚展示されている。一枚は、明治20(1887)年にはじめて架けられた吊り橋のような姿の写真。見るからに危なっかしいようすがうかがえる。もう一枚は大正15(1926)年に撮られたもので、架け替えられたあとの写真。最初に架けられたものより、幾分頑丈そうに見えるが、やはり心許ない。最後は、橋がさらに新しく架けなおされた昭和35(1960)年の写真で、現在の舟場橋でもある。残っている記録は少ないが、たった3枚の写真からも、舟場橋の歴史を現在の舟場橋の入口(2012.7.29)旧宝村旧禾生村旧谷村町旧盛里村旧東桂村都留文科大学旧宝村旧禾生村旧谷村町旧盛里村旧東桂村都留文科大学舟場橋都留市の旧5町村﨑田史浩(社会学科4年)=文・写真(3)禾生村1875年、田野倉村・小形山村・古川渡村・川茂村・井倉村・四日市場村が合併し、良田多く禾かほんか本科(*)のよく熟するところから村名となった。(*)イネ科のこと都留市の旧5町村を巡る旧禾村生(3)

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