FN75号
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27追っていける。 「戦時中は、地域の人がみんな協力的で、赤紙が届いて出兵する兵隊をみんなで駅まで見送るんだけど、舟場橋を渡るときは、ワイヤーがビシンッ、ビシンッとなって、大人の人が怖がっていたのは覚えている。子どもなんかは何もわからないから、キャッキャッいっていたけどね」と、山本さん。そのころの橋は、車が通ることを禁止されていたようで、橋を渡るのはもっぱら徒歩のみ。そのためか、家を建てたときには、地域の人が山で伐った木を運ぶのを手伝ってくれたという話も思い出深く語ってくださった。舟場橋からみる地域の変化 今の橋ができるまでは、自給自足が生活の基本だった。ただ、物流が増え、日用品などを家まで運んでもらうような暮らしぶりになるにつれ、舟場橋は車の出入りが多くなった。 山本さんが、「川を挟んで生活圏が異なっていた」と推察されていた点も、橋がなかった時代の暮らしぶりに興味を抱かせる。例えば、橋ができたことによって、結婚などで嫁入りしやすくなったこともあったのではと考えられる。 初めて橋が架けられたとき、どのような思いが地域を包み込み、それぞれの生活に変化が現れたのだろう。おそらく、橋の完成は川のそばに住む人には喜ばしいことだったのだろう。また、小さく循環していた暮らしが、少しずつ大きくなっていったんだろうと想像しながら、現存する舟場橋から、その地域の時代のあゆみをうかがえた。それだけで、なんともいえない満足感がある。手が届かない、舟の記憶 明治20年に完成した舟場橋。そうすると、舟が往来していた歴史をたしかめるのは容易ではない。山本さんを通じて、橋の近所に住むご年配のかたがたにも聞いてみたが、舟の正確な記憶は手に入らなかった。唯一いただいた情報によれば、舟は未使用時は滑車で吊り上げて収納されていたといわれている。使用するさいには、岸と岸をロープでつなぎ、それをつたって対岸に渡ったのではないだろうか。これも、想像でしかない。 もし、先祖代々記憶が受け継がれていれば、今でも舟の姿を思い起こせたのかもしれない。少し悔しさが込みあげてきた。 山、そして川もまた生活を築くうえでひとつの境目となる。その境目に「道」を拓いた橋は時代の産物である。日常と隣り合わせの構造物であるからこそ、川のそばや山奥に住む人にとっては、暮らしにおいて橋は意義深いものだったのだろう。 橋も地域を観る材料となる。当たり前にあるものを、特別な眼差しを向けて考えを深めることのたのしみを舟場橋は教えてくれた。明治20年の舟場橋(尾県郷土資料館所蔵)
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