FN75号
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FIELD.NOTE38H・D・ソローが『ウォールデン 森の生活』(今泉吉晴訳、小学館)で示唆した散歩のほんとうの意味とは何か。散歩をとおして見えてくるものとは。私たちは歩くことで、変貌する自然やまちの今を記録し、フィールド・ミュージアムのたのしみを報告していきます。第19回谷たにの町・史ふみの里谷村にあった映画館のこと ② 「ヒロバ」での遊び     その後の「谷ヤエイ映」(1)映画館の壁にて。益子亮氏撮影・益子邦子氏(都留市上谷在住)提供│谷村にあった映画館のこと①『「ヤエイ」と私』│(*1)では、益ましこくにこ子邦子さんの記憶を綴っていただいたが、今回は、「谷映跡地」に建つ高尾町通りのイタリアレストラン「BブオーノUONO」店主、岩いわま間美みちこ千子さんに記憶を記していただいた。ぼろぼろになった私のアルバムのなかに「谷映の……で」とメモ書きされた写真が数枚ある。母に抱かれた私、「谷映の外壁」を背にしている。撮影は昭和28年2月。「谷映座入口で泥いじりをして叱られて泣いている」という注釈付きの写真は昭和30年8月。すでに映画館としての営業を終え、貸店舗としてパチンコ屋が入居していたが、わが家ではこの建物を変わらず「谷映」と呼んでいたようだ。これらの写真はメモ書きがなければ場所は特定できないし、映画館が想像できる写真ではない。「谷映跡地」(*2)に花を咲かせたヒマワリの前に立つ私。撮影は昭和34年ころの夏。データなどの記述はないが、後ろに写る家に覚えがあり、場所を特定できる。 この「谷映跡地」を私たち子どもは、「ヒロバ」と呼んでいた。ここは恰好の遊び場となっていて、近所の多くの子ども(*3)が集まっていた。縄跳び、チンチンパタ、缶けり、缶に紐を通して足を乗せて歩くカンポックリ、ベーゴマやメンコ、キップ売り場の名残であるアーチ形の鉄パイプを利用して、逆上がりなどの鉄棒遊びなどをしていた。 なかでも最もスリリングなのが「ヒロバ」の地形を利用した遊びであった。「ヒロバ」は建物を移しただけで、跡地は整地されていなかった。舞台があった場所に向かって、緩い下りの傾斜が付いていて、舞台の基礎となる部分には土が1mほどの高さに積み固められていた。リヤカーを持ち出し、引き手を除く子どもたちは荷台に乗り、引き手はこの傾斜を土手に向かって突っ込んでいく。土手にぶつかるのは前面の横パイプ、左右の縦のパイプを握っている限り手を痛めることはない。衝撃を楽しんでいた。「ヒロバ」ならで◇

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