FN76号
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FIELD.NOTE20旧盛里村に、蚕こかげさん影山があるらしい。そこには、養蚕にまつわる石仏があるようだ。山や石仏から養蚕の跡を追ってみたいというのが、今回の取材の出発点だった。それらを探し求め、盛里地区へ向かう道中、旧谷村下戸沢を歩いていたとき、志しむら村正しょうこ子さん(80)に出会った。 たまたま家の外に出ていた正子さんに何気なく養蚕についてお聞きした。「養蚕」がピンとこなかったらしく、繰り返し聞くと、「今はハイカラになってお蚕かいこって言うけれど、ここではお蚕のことをおしらさんって言うの」。続けて、おしらさんの神様のことを「おしらがみさま」と呼び、その石碑が正子さんの家のすぐ裏手の山の入り口にあることを教えてくれた。 一口に「養蚕」と認識していたものが、方言や石碑の存在から、地域ごとの固有性を持つものであることが見えてきた。そこで、蚕影山探訪は中断。「おしらさん」についてさらに聞いてみたくなり、幼いころから養蚕に携わっていた正子さんにお話をうかがうことにした。「明かり」を励みに お嫁に来たころは、毎日夜10時以降まで機はた織りをしていた。そんな話から始まった。「ああ、あそこでもまだ織ってるからもうちょっと頑張ろうって」。街灯の少ない時代、ぼんやり見える余所の機場の明かりを見て、毎日遅くまで働いていたそうだ。昭和30〜40年は、機織りの最盛期。「ここらどこの家も機屋になったのよ」と正子さん。その当時は、「がちゃん」と機の音がすれば、「万円」儲かることを意味して、「がちゃまん時代」と呼ばれていた。 また、織物の原料となる糸を作りだす養蚕は貴重な現金収入となった。どこの家も蚕の「種」を養蚕組合から毎年50グラム買って、春はるご蚕、夏なつご蚕、秋あきご蚕、晩ばんしゅうさん秋蚕と年に4回の繭づくりをおこなった。100グラムの種を買う家は「お大だいじん尽」で、集落に1軒か2軒しかなかったという。食料は田畑で自給自足して賄い、木を売ることで収入を得ていた。それおしらがみさまの石碑(2013.2.16)都留市の旧5町村を巡る(4)旧谷村町-戸沢地区からみる都留市の養蚕- 1954年4月29日、旧谷やむら村町まち、宝たから村むら、盛もりさと里村むら、禾かせい生村むら、東ひがしかつらむら桂村が合併して、都留市が誕生した。「都留市の旧5町村を巡る」では、各地域を渡り歩き、気になる人やモノから、その地の風土を探っていく。 都留にいると、「養蚕」の話を耳にすることが多い。それほど、生活に密着したものだったのだろう。ぼやけたままの「養蚕」にはっきり向き合いたくなり、旧谷村町戸沢に出かけてきた。﨑田史浩(社会学科4年 )=文・写真上戸沢出身で、下戸沢に嫁いだ正子さん(2013.3.6)FIELD.NOTE

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