FN76号
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21以外の生業として、養蚕は家計の支えとなる、日常のまんなかにあるものだったのだ。子どもの仕事 子どものころから、養蚕と関わり続けたからだろう。正子さんはまるで、昨日のことのように当時のことを口にする。蚕の飼いかたや繭の作りかた、作った糸で織った着物の話など話題は尽きない。そのなかでも、「子どもの仕事」として度々登場する養蚕の思い出が印象深かった。 「子どもだって、戦時中飴玉なんてないころね、蚕のときはお金がなくても(親が)買っといて、子どもにくれるわけ。それをもらうのが嬉しくて、一生懸命」。例えば、作られた繭を見てその状態を検品するのは、親の代わりに子どもがする仕事だったそうだ。また、蚕は、ボール紙の箱のなかを碁盤の目のように区切られた升目にひとつずつ入られていた。それを、(「宿る」から)「やとう」と呼び、糸を吐ききった蚕の箱を裏返して「つき出す」のも子どもの仕事になっていた。そうして、できあがった繭は売られていくのだ。 「お蚕さんって決して怖くない」と正子さん。生きものではあるが、箱に入れてやればそこにちゃんと入っていたからだそうだ。それに、やり始めれば面白かったとも言う。朝から晩まで、ときには夜を徹して家族総出でやってきたのだ。地域との対話 正子さんが語る養蚕は、仕事というよりも暮らしそのものに感じた。だからこそ、地域固有の扱いかたがあるのだ。 しかし、今では正子さんの家では、機織りの道具は処分され、養蚕をおこなうために3階まであった家屋も2階に改築されている。「おしらがみさま」と、願いや祈りを込める風習も、いずれは日常から消えていくのかもしれない。 都留が織物の産地であったことを何度か知る機会はあったが、誰かの記憶を通して知る養蚕や織物の話は、追体験となり身に染みてくる。遠い昔の生業だと思っていたものがつい最近のことに思え、都留で織物を営んできた人の思い出に触れることで、都留と自分が小さな糸でつながった気分になった。 都留の歩みを象徴する養蚕。それを都留の人によって教えてもらい、自分の身近な歴史や文化として実感を持つ対話のひととき。そういった地域と自分との関係づくりが都留での学びとして積み重なっている。正子さんとの出会いから、あらためてその手応えを感じた。       ◇  ◇  ◇ 正子さんは、昔織った着物に綿を詰めて新しく半はんてん纏を作っている。着てくれる人に喜んでもらいたい、そう話す正子さんの気持ちに触れて、養蚕が今もまだ生き続けているように思えた。 連綿としたつながりは、すぐには見えてこない。けれど、こうした出会いを通して、名前や形を変えても「おしらさん」は実感を伴って私たちのそばにあり続ける。そう思うと、身近な地域でこれからも人やモノと対話し続けていきたいと強く願うのだ。(4)谷村町1875年に、上・下谷村が合併し谷村となる。名前の由来は「谷あいの村」。1896年に谷村町となり、1942年には三吉村(法能、玉川、戸沢)と開地村(小野、菅野熊井戸)を吸収合併し、市制後も谷村地区として残る。◀鮮やかな紺色が目を引く半纏。ミシンを使って、昔の着物や座布団の生地を再利用している旧宝村旧禾生村旧谷村町旧盛里村旧東桂村都留文科大学戸沢都留市の旧5町村

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