FN76号
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37の空間をたのしみます。静かだけれど静かすぎない穏やかな居心地と、バス特有の縦揺れがなんだか眠気を誘います。 すると、「産業短期大学前」で1人のおばあさんが乗ってきました。膨らんだエコバッグを腕から提げる姿は、一目で買い物帰りだとわかります。この荷物を持って家まで歩いて帰るのは無理だろうなあ。この人にとって循環バスは日常に浸透しているのだと感じます。「ビッグアイ前」に差しかかろうかというとき、おばあさんが運転手に「すみません」と声をかけました。整骨院の前で降ろしてほしいと言うのです。運転手は戸惑うそぶりもなく、バスを道の端に寄せて一時停車し、おばあさんを降ろしました。乗客の数が少なかったというのもあるのかもしれませんが、私にとってはこういったやりとりが、循環バスをただの移動手段だけではないものにしているように思えました。 「芭蕉月待ちの湯」をUターンして先ほど来た道を下っていく途中で、また1人乗ってきました。この人も背を屈めたおばあさんです。そのおばあさんより一回りか二回り年齢が下のように見える女性と犬が見送りに立っていました。また遊びに来てね、また来るよと会話をして、バスへと乗り込みます。ドアが閉まる瞬間までお互いに手を振っていました。この二人の関係は私にはわかりません。友人かも知れないし、親子なのかも知れません。想像をめぐらせているあいだ、もたもたしているとか、早くしてほしいとか、そういった気持ちはまったく湧いてきませんでした。バスがもたらす距離 循環バスに乗っていて気づいたのは、人と人との物理的な距離がとても近いということです。くるりと辺りを見回せば、誰が何をしているのか容易にわかります。時には乗客の話し声が、心地よさのある音となって耳に届きます。電車では富士急行線のような小さな路線でも2両はあるので、乗り合わせた人すべてに目を配ることは難しいでしょう。 またバスのなかは、歩くのとも自家用車を走らせるのとも違う時間の流れかたをしています。歩いているときや自家用車を使っているときは、時間は自分のもとにあるような気がします。余裕のあるときは寄り道をしてみたり急いでいるときは近道をしたり、臨機応変です。けれど、バスに乗っているときの私は、自分の時間をほかの人や周りの環境にゆだね、バスの外の景色やバスのなかのようすに集中しているように思いました。 私はバスに乗っているあいだ、運転手やほかの乗客に話しかけたわけではなく、ただ空間をともにし、バスのなかの光景を眺めていました。そうして見つけたものは、出会いや交流という言葉すら大げさすぎるような、小さな小さな接点です。その接点と向き合っているうちに、利便性や速さではなく、移動手段そのものへの愛着がわいてくるのでした。 地域に深く根を下ろす循環バス。他人の存在が近くにあることをたしかに認識しながら、お互いに踏み込むことを強いるわけではない、ゆるやかな空気がそこにはあります。あの空気を味わいたい。そんな思いが、また循環バスを利用しようという私の気持ちを後押しするのです。車内はきゅうくつさを感じさせないゆったりとした空間になっている

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