FN77号
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no. 77 Jun. 201320 絵図は裁決の内容を図にしたもので、裏面には「裁許之事」の内容が詳細に書き記されている。文末に「宝暦十三未年」とあるから、いまからちょうど250年前の話になる。ただし、この絵図が本当に250年前のものかは判然としない。宝暦13年(1763)に下された裁許文をのちに仕立て直したものかもしれないからだ。いずれにせよ、宝暦年間の人々の生活やそこから生じた問題、最後は知恵を出し合って一定の合意に漕ぎつけた成果を伝えるものであることは確かだ。 航空撮影などできない時代、広大な土地を、しかも複雑な山林中を的確に把握するのは決して容易ではなかっただろう。付箋に書かれた沢や尾根、目印となる地形に与えられた名前は、入会山の範囲や村境などの共通認識をもつうえで重要な働きをし、いま以上に生活のなかで機能していたのではないかと想像した。 その場で読み取れる文字はほんの一部に過ぎなかったけれど、絵図が作成された目的や背景がぼんやりと見え始めたような気がした。図面の見方は、すでに色鮮やかな絵画を観賞するものではなくなっていた。山は煮炊きや炭焼きに使う薪を始め、生活の糧を得るためには欠かせない存在だった。だから山の利用に関わる論争は、日々の生活に直結する切実な問題だったといえる。 『都留市史』によれば、こうした入会山をめぐる議論や境界に関する論争は各地で頻発していたらしく、現在でも当時の山論資料が数多く残されているという。この絵図の内容を活字にした刊行物は見つけられなかったが、入会7カ村のあいだには材木の伐採をめぐって山論が展開されていたことが分かった。争いが起こるたび、人々の求めに応じて役所から裁決が下される。そのさい、過去の資料を証拠として提出させることもあったから、この絵図も不測の事態に備えて大切にされていたのだろう。黄色で塗られた鹿留村。紺色で描かれた河川は左が鹿留川、右が桂川だと思われる【右】志村さんと裏面の裁許文を見る。その場で判読できる文字が少なかったのが心残り(写真=﨑田史浩)【左】 絵図の右下にある凡例。右から「此色川/此色鹿留山色/此色田畑/此色内野村山色/此色河原/此色丸尾/此色道筋」と読めた見聞ノート古渡に伝わる絵図

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