FN77号
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2011年秋から、私たちは都留市にお住まいの遠えんどう藤静しずえ江さん(80)に聞き取りをおこなっています。遠藤さんは子どものころに戦争を経験し、のちに40年間教員を勤めたかたです。現在も創作活動などに精をだしている遠藤さんの生きかたに迫ります。4月22日、今回は遠藤さんがなぜ教員になろうと思ったのかを切り口に、女学校に入学するまでの経緯について伺いました。教員になったっていうのは、もう子どものときから先生に憧れてたの。 子どもっていろいろ「ごっこ遊び」するでしょ。その時、学校ごっこするの。そして、自分が先生になるの。おもしろいのよね。柿の木の枝に黒板を吊る下げて、そんでいらない紙をみんなちいちゃく切って、鉛筆渡して、足し算させたり、丸つけたりね。 そのころの子どもの遊びってさ、ほとんど工夫して、あるもので遊んでたの。なにをするにも。だいたい自然と向き合ってたでしょ。竹の棒だとか木だとか、草だとかね、そういうものがほとんど遊びの材料になったの。みんなほとんど遊びっていうのは、そこにあるものが材料ね。身の回りにあるものを工夫しながらそれで結構楽しく遊んでた。 私、先生になりたくて、みんな、同じくらいの子どもたちが集まって、そして(学校ごっこを)したのね。みんな言うこと聞くの。ちっちゃいこっち(幼い子どもたち)。でね、極めつけは、「もう先生はこの学校を終わってほかの学校へ行きます」なんて言ったのね。ほかの学校へ転勤する先生は、みんな駅まで送ってくのよ。そうすると先生が、ハンカチで涙を拭きながら、窓のところで見るの。そうすると子どもがみんな「先生、さようなら」って先生が見えなくなるまで手を振るの。それが、なんか子ども心にも最高の場面みたいな感じがしたのね。 遊んでいるところだって、平らなところと高いところあるでしょ。そうすっと、子どもが平らなところにいて、先生がさよならってちょっと一段高いところにいて送るの。自分が先生になったような感じでね。そんなふうにして子どものときから先生になりたいなあっていう希望はあったのね。集団疎開があったころ 私たちの時は、小学校の6年が受験なのよ。昭和20年って。その上は、女子の場合は女学校。男子の場合は中学校。そういうふうになってたの。だから6年の受験てものすごく厳しかったのね。ちょうど昭和20年っていうと、戦争が激しくなったでしょ。だから都会の子どもはみんな田舎に疎開してくるの。戦争が激しくなって都会にもいられないでしょ。集団疎開というのがあったのね。学校全部で田舎へ疎開する。それから、縁故疎開ってのは̶女学校へ行くまでの経いきさつ緯̶38no. 77 Jun. 2013

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