FN77号
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親戚を頼ってくるとか。だから一クラスが45人くらいなのが、最後は50人以上になるの。今みたいに一人がけの椅子とかじゃないから、長い椅子、机も長いのね。3人がけにするとか、そんな感じだったのね。 で、受験するんだけど、50人くらいで受かるのが一クラス15人、いないのよ。そのくらいみんな落ちるの。 勉強するんだけども、電気つかないの。戦争中でね。灯火管制っていって(電気の)上から覆いを被せて、明るいのがその下だけなのよ。それが時々停電になるの。外へ出たら真の闇。 だけど、受け持ちの先生が自分の学級の子どもの合格率をよくしたいから、ものすごく頑張るのね。先生っていうのは、一国一城の主みたいに自分の生徒をみんな受験に強くしたいから、すごく頑張るの。 私が教わった先生もすごく頑張り屋で、受験のための勉強してくれるの。それが、ここ(学校)でするんじゃなくて、友だちの家を借りるの。そして夕飯食べると、そこへ受験する人がみんな集まるの。口答試問の対策法 その当時の勉強っていうのは、ほとんど受験は口答試問なの。筆記より口答試問が主体。向こうで何が出るかはわかんないのよ。だから先生が出そうな、たとえば数学なら数学で、こういう問題が出そうって言うの。口答試問でみんな一晩に、50問以上なり100くらい書くのね。国語でいえば、誰々の詩は知ってますか、言ってご覧なさい、とか。 そういう質問があって、答えを書いてっていうふうに、ぜーんぶそれをノートへぎっしり書いて、だいたい夕飯食べて、行って帰ってくるときはもう12時ごろなの。だけど、12時ごろでも電気つけちゃいけないの。だからね、夜、道があるでしょ。電信柱がたってるよね。空のなかに微かに黒い電柱がわかるでしょ。そうすっと、ここが路肩だなっていうのがわかる。そこを見ながら家まで歩くの。もちろん親の送り迎えなんて一切ないよ、6年生で。自分で行って自分で帰ってきて、帰ってきてから先生が出した問題をもう一回清書するのね。次の日までに。 そういうふうにして、そうねえ、ちょうど10月ごろから(受験勉強が)始まるね。そして3月の10日ごろが試験だったの。そこまでずーっと続くの。でも、そういうことを先生、一生懸命してくれたの。無料で。 東京大空襲が、昭和20年の3月10日、11日あったのね。その空襲のさいちゅうが受験だったの。2日間あるのよ試験は。私たちの場合は今の谷村第一小学校が私の学校で、その上に市役所がありますよね、あそこが女学校だったの、昔は。今、市役所だけどね。だから距離は短いわけ。学校から、あるいは受遠藤さんが6年生のときに使用していたノート戦時中のようすを話してくださる遠藤さん39

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