FN77号
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験に行くにも。 口答試問と、あと体育の実技があるの。跳び箱とか、小学校でも。手旗信号っちゅうのがあるの、体育のなかに。今でも覚えてるよ。その手旗信号をこっちで送ると、そのむこうで、それは何を言ってるかって受けとる。それから、モールス符号ね。それを読み取ったり、聞き取ったり。そんなことも戦争中の勉強の中身だったのね。戦時中の衣食 ところが勉強していられないのよ。だいたい決まった時間にB29、B29っていえば、たとえば、(机におぼんの大きさくらいの円を描きながら)これがB29だとすると、日本の飛行機は豆を一つ置いたくらいの大きさなの。それくらい違うの。おぼんに豆。それ(B29)が、富士山のほうからがーっと来るの。だからもう、勉強しててもすぐ防空頭巾を被って、救急袋を持って、みんな谷村第一小学校の前にある長安寺山へ逃げるの。だから勉強っておちおちしてられなかったのよね。 そして放課後とか、午後の時間になると、グラウンドが全部畑で、そこへマメ蒔いたり、イモを蒔いたり全部そうするの。それから、川原を掘ってそこへサツマイモ蒔いたりとかね。それから、農家が忙しくなると、勤労奉仕っていってみんなお手伝いに行くの。 食べものもなくてね。お弁当持ってこられる人はね、50人くらいでも10人っくらいっきり(10人くらいしか)いないの、だっておかゆだもの。おかゆとかそういうものだったら持ってこられないでしょ。お弁当箱に入らないでしょ。だから、お弁当泥棒っていうのもあったのよ。みんなが体育へ出ていると、こっそり誰かが部屋のなかへ来て、お弁当食べちゃうとかね。みんなお弁当持ってきたっていっても、そこで10人くらい食べれる人は、サツマイモとか、ジャガイモとかそういうものなのよ。食べられるものは。ちゃんとした食べものがなかったのね。 着るものだってね、その当時の着るものは、ほとんど新しいものってなんにもないの。うちなんか母親の着ていたものをみんな解いて、私たちの洋服をつくってくれたり、編みものね、いらないもう古くなった毛糸とかセーターとかもそういうものでつくったの。ほとんど大変でね。父が戦地へ 私は5年生のときに父親がね、みんな知ってるかしら、赤紙って召集令状が来て。それが11月に来たのよ。私が一人で家にいて、そうして家族はみんな、うち農家だったのね、だから稲刈りしてたの。そこへ持ってきたの。私はすごく驚いてね。私長女だったから、それがどういうものかっていうのは、ものすごくよくわかってたの。 そのころの農家の子どもっていうのは、運命共同体よ。だからもう家族として、ちっちゃい人はちっちゃいなりにみんなお手伝いっていうより仕事だね、仕事をしてたわけ。分担して。 だから経済的なこととか、そういうことも、ものすごくよくわかったの。父が行ったらこの家はどうなるとか。父親が5年生の時に行っちゃったとき、そのまま出征しちゃったのね。家は結局、年寄りのおじいさんとおばあさんと母親と子どもが4人、という生活だったの。これは厳しいよね。働く者がいなくなってるでしょ。no. 77 Jun. 201340

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