FN77号
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 そしたら、私教員になりたかったけど、女学校へ行けなくなっちゃったの。経済的にも家のことしなきゃなんないっしょ。私が一番上で、下がまだ1歳にもなんない。だからおじいさんたちが、女学校へ行けないって言ったの。で、私がちっちゃいながらも絶対先生になりたかったから、すごく泣いて大騒ぎしたのね。女学校へ行きたい でね、ここの町のことをそのころは道どうしょうぼり生堀といっていた。それから桂川があって院いんべ辺橋のむこうがね羽はねこ根子っていうの。こことここの村は一つの村みたいだったのね、その当時。 私のおじいさんが、「むこう村とこっちの村を併せても、うちよりもっと裕福な家があるけど、いままで誰も女学校へ行ってない」って。「誰もいままで過去に行ってないから、うちなんか今こんな状態だから、行くことない」ってね、そう言ったの。それで私はもう、すっごいねえ、泣いてね。絶対行きたいって言って。 そしたら私の父に、受け持ちの先生が手紙やってくれたの。「静江さんが女学校へ行きたいって言ってるから、なんとか願いを叶えてやりたいけれど」って父に手紙をやったら、父が戦地からあの、戦争に行ってても向こうでもいくらかお金もらうらしいのね、軍隊でも。そしたら、そういうお金を工面しても(学校に)やってくれって言って、手紙よこしたの。そしたらその手紙が、ものすごく効き目があって。おじいさんもみんな、その手紙を先生が持ってきたから納得して、行くことになって、それで受験したの。だからそこのところで私の人生っていうのは、もしそこで女学校へ行けなかったら、全然違った人生になったと思うの。女学校2年の時の遠藤さん̶̶『昭和20年入学 谷村高女 同級会記念文集』(昭和57年6月27日作成)より、遠藤さんの文章を一部抜粋 昭和二十年̶̶終戦は、その後の私の生き方の原点になりました。 信じきっていた価値観の百八十度の転換は、真理は一つであるという盲従の中から立ち上がらせることと、求めることを教えました。 とは言うものの、それらを育て満たすには、あまりに貧しい時代が続きました。物心両面の飢えがバネになり、希求する心は、かえって強くなりました。私というこの一人の人間を、どう育てて行くか、と言う課題は、私が教育という仕事にたずさわる中で、人間の可能性を信じて止まないことと根っこはひとつです。 それらは又、私個人の中で達成出来るものではない事を、いやと言う程、体験させられました。それは、私の考え方や行動の柱となってきています。遠藤さんのこと日本の状況谷村尋常小学校入学父が出征する受験勉強をはじめる試験日(3月10、11日)谷村高等女学校へ入学第二次世界大戦が勃発集団疎開がはじまる東京大空襲第二次世界大戦が終戦昭和14「谷村尋常小学校」から「谷村国民学校」になる時期昭和16昭和19昭和20昭和18幼少期の遠藤さんにおこったできごとと、戦時中の日本の状況41

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