FN77号
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no. 77 Jun. 201342天神社入口の門柱を過ぎ、境内へと続く階段を少しあがると、一つの石灯籠が見えてくる。もともとは階段の両側に置かれていたようだが、すでに片方は失われて土台のみが残されている。 ここへは何度か足を運んだことがあった。石の灯籠自体いたるところで見られるから、さほど珍しさも感じない。けれど、ここの灯籠はほかとは少し違うらしい。建てた人たちの願いがはっきりと分かっているのだという。 竿さお部ぶ(長細い柱状の部分)を見ると、うっすら「願主 森もりしま嶋其き進しん 門人中」と刻まれている。聞けば、森嶋其進(1761〜1821)は現在の都留市下谷の人で、生家は下谷村の長百姓という村役を務めるかたわら絹商をしていたそうだ。名前は一般的に「キシン」と音読みされるが、本来は「もとのぶ」ではないかと考えられている。甲斐国の代表的な地誌『甲斐国志』の編纂に携わった人物のひとりで、とくに郡内地方の担当を任された人であった。 天神社の石灯籠は、そんな彼に教えを一本の道をじっくり歩きながら、土地の歴史や民俗を探求する。それが、「富士道を歩く会」だ。昨年5月に大月市を出発し、目指すは富士吉田市の「北口本宮冨士浅間神社」。毎回3時間ほどを目安に、案内役の都留市郷土研究会の皆さんと古道を辿っていく。3月24日(第8回)は城南公園から出発し、新町と早馬町の境界である通称「十一屋横丁」を抜け、金比羅神社や天神社、ついで西願寺や金山神社などの富士道周辺の寺社を巡りながら、立体交差している珍しい水路を見つつ普門寺までを歩いた。をく2013富士道 旅録1803年(享和3年)、江戸幕府は全国に地誌編へんさん纂の内命を下し、甲斐国では『甲斐国志』が編まれた。私がこれまでにも何度か目にしていた天神社の石灯籠は、この地誌の編纂に関わりあるものだった。そのモノをただ見ているだけでは読み取れないものを、郷土研究会の皆さんに教えていただいた。石灯籠がつくられた理由城南公園から普門寺まで牛丸景太(国文学科4年)=文・写真

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