FN77号
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43受けた門弟によって建立されたものだった。同じく竿部に刻まれた碑文によれば、『甲斐国志』完成の前年にあたる文化十年(1813)に奉納されている。弟子たちは作業が大詰めに差しかかるころ、師匠の編纂成就を学問の神様に祈ったのだ。「最後は神頼みだったんだよね」と、郷土研究会の内ないとうやすよし藤恭義さん(81)が微笑む。幕府から命めいを受けて始まった事業だけに、地誌づくりはかなり重圧のかかる仕事だったに違いない。 今からちょうど二百年前。この地域の地理や風俗、習慣や伝承などの記録に心血を注いだ人がいること、そしてその支えになりたいと願った人たちがいたことを、天神社の石灯籠から知った。「願主 森嶋其進 門人中」と刻まれた竿部の碑文。向かって右側面に年号、左に世話人の氏名が刻まれている金比羅神社【天神社】森嶋其進の門人が建てた石灯籠がある。かつては広く信仰を集めた大きな神社だったが、現在はひっそりとしている【水路の立体交差点】現在は暗渠(あんきょ)になっている中川(上矢印)と、寺川から引いた灌漑用水(下矢印)が交差する地点。江戸時代からすでにこのような立体交差点になっていたらしく、ほかにあまり例がない珍しい造りだという普門寺西願寺金山神社ミュージアム都留城南公園至大月市【十一屋横丁】新町と早馬町の境界になっている小路至富士吉田市R139←早馬町新町→家中川寺川今回訪ねた場所【西願寺前を流れる寺川】橋の長さが護岸工事される前の川幅を伝えている。以前はバイカモがたくさん生えていた★【普門寺門前の水路】家中川の余り水を桂川に落としていた。戦前はアヒルを飼ったり、友禅流しをしたりしていた写真=『奥隆行写真コレクション』かつての富士道のルート富士急行線

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