FN78号
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no. 78 Aug. 201322かつて新町通りに掲げられていた薬屋の看板。いつしか役目を終えて行きついた先は東京の骨董市だった。明治43年の新町。写真右端に郵便局のマークが見える『奥隆行写真コレクション』通し番号0738新町から出て行ったもの│銅屋鈴木家の看板│大学1年生のとき、編集部の先輩からある写真のコピーを受け取った。印刷されていたのは雑誌『東京人』165号(都市出版、2001年4月)に掲載された写真。きりっと鼻筋のとおった外国人女性が、身の丈よりも大きな看板を大切そうに抱え、道のわきに並んだ品々に視線を落としながら颯さっそう爽と歩いていく。そんな一瞬を切り取った写真に、私の目は釘づけとなる。看板の右下には店の所在地を示す「甲州郡内上谷村新町」の文字。ひとたび目にするなり、すぐにそれが都留市内にあった商家のものだと分かった。 漆黒の下地に、美しく照り輝く金色の文字。右上に「妙薬」と銘打っていることから、おそらく薬屋のものだと予想できる。写真の説明書きには、東京の東郷神社で開かれる「東郷の杜 能美の市」で撮影された、とあるだけで詳しくは書かれていない。もともとあった場所はどこだろう、どうして骨董市に流れ出たのか。そのころ新町(都留市商家資料館のあたり)の街並みについて調べていた私は気になった。写真のコピーをくれた先輩が「郵便局をしていた鈴木さんの家の看板」とメモを添えている。郷土史に明るいかたから教えていただいたそうだ。 商家資料館(旧仁科家住宅)が建てられる以前、その敷地には薬種商として知られた伊勢屋鈴木家が運営する郵便局があった(明治25年から大正4年まで)。新町、薬屋、郵便局、そして鈴木姓。この四つが繋がって、私は看板が伊勢屋のものだろうと考えた。しかし、のちにそれは間違いで、看板左下に彫りこまれた「鈴木與よじえもん二右衛門」の家はまた別にあることが分かる。きっかけは屋号の違いだった。 地域のかたと会話していたとき、昔の薬屋が話題になったことがあった。そのなかで鈴木與二右衛門の家が「銅あかがねや屋」という屋号であると耳にする。あとで大正5年発行の地図を確認してみると、仁科邸の向かいには伊勢屋が、その数軒となりには銅屋の名が記されている。さらに調べていくと、一番初めに郵便業務を担っていたのはこの銅屋鈴木家だったことも分かった(都留の今昔編集委員会『都留の今昔』1978年)。伊勢屋はそのあとを受け継ぐかたちで郵便局を運営していたのだ。
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