FN78号
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23牛丸景太(国文学科4年)=文・写真写真では女性が腕で覆い隠している「圓」と「家」のあいだが読み取れない。「桑山」は江戸時代から子どもの万病に効くとされた小粒の丸薬で、「五ごかん疳」「驚きょうふう風」はいずれも子どもが患う病気の名前看板の再現(略図) 銅屋鈴木家が今も新町にあると知った私は、今年の7月2日、かつて看板があった家を訪ねてみることにした。写真に出会ってからもう2年以上が経過していた。 突然の訪問を快く迎え入れてくださったのは、現在の当主 鈴木威たけしさん(71)と奥さん。写真を見せ、看板の由来について尋ねたところ、「じつはよく分からないんです」と答えが返ってきた。知人から雑誌に載っていると教えてもらい、そこで初めて看板の存在を知ったという。だから、いつどのような経緯で新町から出て行ったかは分からないそうだ。 銅屋では、鈴木さんの祖父まで代々「與二右衛門」を襲名している(ただし表記には「二」「次」「治」などの違いがある)。したがって銅屋がこの看板を掲げていたことは間違いないが、薬種商をしていた証となる資料さえ今のところ見つかっていないのだという。 「あのときはびっくりしましたね」。奥さんが初めて写真を見たときの感想を語ってくださった。由来はまったく不明だけれど、確実に自分の家に関わりあるものが東京の骨董市に流れ出て、そのようすが偶然にも撮影された。ものが辿りうる道のりは何通りもあって、ときには時間や距離を隔てた意外な場所に行きつくこともある。「不思議だよねえ」とおっしゃる奥さんの言葉に共感しながら、看板が新町を出て行った事実をどう捉えればよいのか、自分なりに整理しておきたくなった。 時期は定かでないそうだが、銅屋は明治に入ってから金融業に進出し、少なくとも薬種商は廃業している。いつからか看板が本来の役目を終えていたことは確かで、もしかしたら棄てられていた可能性もあったかもしれない。地域の史料が外へ流失してしまったことは正直とても残念で、失われたものを惜しむ気持ちもある。けれど、処分されてしまうよりは誰かに価値を見出され、大事にされているほうがずっと良い。 雑誌に掲載された写真は、たんに史料が運び去られる寂しげな一面だけを切り取っているわけではない。かつて新町で使われていた看板がふたたび役目を与えられ、新しく出発しようとする姿を記録していた。【上】繰り出し式の位牌を開ける鈴木さん夫妻。屋根を外して位牌を取り出す【下】一枚の白木には複数の人の戒名が記されている。何代にも渡って同じ名前が継がれてきたことが分かった

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