FN79号
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43れらの記述は当時の人々の認識を知るうえでとても興味深い。 なかには表記が間違っていたり、位置関係がじっさいとは異なっていたりすることもある。しかし、この地を訪れる旅人に対して何を紹介すべきとされていたのか、つまり何が主要なものと考えられていたのかを知るためのよい手がかりになる。旅人に知らせる情報は、無駄なく精選されているほうが好ましい。ここに描かれているのは、いわば端的に捉えられた地域の姿といえるだろう。 もっとも、地域史を紐解くうえでも参考になる点はある。たとえば十日市場の右側に描かれた神社記号には、真上に「田原瀧元 若宮八幡」という注記が加えられている。これは現在の田原神社をさす名称で、大正7年(1918)まで用いられていた。いまでもお年寄りを中心に、田原神社を「八はちまん幡さん」と呼ぶ人がいる(第9回「富士道を歩く会」での聞き取りより)。 江戸時代の文献は、古い呼び名の元となった当時の社名と、「八幡さん」と呼ばれ親しまれてきた時間の長さを示してくれるのだ。右:『富士山道しるべ』には、ところどころに折りたたみ式の絵図も綴じ合わされている左:第9回 (2013. 04. 27)で訪れた田原神社。境内が国道の用地になる以前は、参道にたくさんの露店が並び、にぎやかなお祭りがおこなわれたという谷村周辺が記された10丁ウラ。川が城山の奥へ回りこんでいるが、じっさいは手前を流れる*参考文献 『富士山道しるべを歩く 改』富士吉田市立歴史民俗博物館、2010年 『都留市地名事典』都留市郷土研究会、2012年

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