80(単ぺージ)
25/48

25*取材にさいしては、ご紹介できなかった方々にも聞き取りさせていただきました。ありがとうございました。たが、昭和7年にいまのお宅に移ってきた。当時は高校(工商校)とお宅の間に家は一軒もなく、平地を吹きぬける風を真正面に受けていたという。風が吹くとグラウンドから砂すなぼこり埃が飛んできてかなり苦労した、と守男さんが笑う。京子さんは「廊下が砂でざらざらして大変、風が吹くと恐ろしかった」と当時を振り返った。 本題の道は、さきの小林さん同様、リアカーが一台通るくらいの幅だったと守男さん。脇に水路(小川)が流れ、子どものころには「魚もけっこう捕った」という。夏になると、ホタルやオニヤンマがよく家の庭先までやってきた。家のなかには川風が上がってきてとても涼しかったそうだ。その水路はのちに道路拡張のため暗あんきょ渠となり、姿を潜めた。飲食店の敷地を流れていた水路はちょうどその上流部にあたる。やはり往時の面影を伝えるものだったようだ。「むかしは菅野とか小野とかの人が地主さんから借りてつくっていてね、農地解放になって、家をつくったりアパートを建てたりして、街が新しくできたのね。文大(都留文科大学)ができて開けてきたっていうのかしら」「さま変わりしたね。友達と『別の街にきたような感じがするねえ』なんて話もするね」 「いま思うと夢のようだ」。ゆっくりとした口調でそう話す京子さんの言葉が、景観の急激な変化を一言で表現しえているように思えた。 藤本さんのもとを辞し、帰路につく。すでに日も暮れて街灯がともっている。途中、あそこの家のおじいさんに聞いてみるとよいと教えられ、安やすとみ富藤ふじお男さん(79)のお宅を訪ねた。事情を説明し、私が判断に困った場所の道筋について教えていただく。道が消えていた箇所はいずれも、バイパスの開通後に建物の敷地に変わっていたようだ。こうして、断片的に残るむかしの道は、新しい地図の上で一本につながった。     *   *   * 古地図には書かれていないが、水田地帯にはほかにも何本も道が存在した。取材させていただいた人の多くがそう証言している。近代の地図や写真でも、拾いきれない情報が少なからずあるのだ。そうした取りこぼしを補うには、やはり当時を知る人からじかに話を聞くのがよい。人の記憶はときに曖昧さや錯誤を含むこともある。けれど、複数の人に話を聞けば、わずかなずれはおのずと炙あぶりだされ、修正されていく。そして同じ証言を集めるうちに、確実にいえそうなことが輪郭をもって浮かびあがってくる。 元坂の水道橋の下を人が頻繁に往来していたという話、きれいな小川の流れに親しんだ経験、夏の夜に見た蛍火の美しい光景││。どれもが、それを語る人がじっさいに目の当たりにした事実であり、個人の思い出という枠を越えて鮮やかに描きだされた史実として受け取ることができる。私は本や資料によらず、地域の人の記憶から直接、大学周辺の街の前史を学んだ。*天神通り線……昭和40年着工、同43年完成。開通記念碑には「開通にあたり美田沃土にかわる都留文科大学の偉容 連接する家屋を一直線に縫う街路 上谷地区の発展は往時を顧みて感無量である」と刻まれている⑤金山神社参道との合流点④谷村工業高校横

元のページ  ../index.html#25

このブックを見る