学報139号
3/40

さよなら「文大」 着任したのは15年前、都留の第一印象は「何もないところだな」でした。そのころは、まだ都留文科大学前駅すらなかったのです。数年経って、ジェンダー研究プログラム運営委員会の仕事で、ある講演を聴きました。各地で町おこしの活動をされてきたという講演者は、地方で「ないもの」探しをするのはやめようとおっしゃいました。そうではなく、「あるもの」を数えていくのだと。 そのように視点を変えれば、すぐ、都留に「あるもの」を思いつきます。まずは、大学とそこにいる学生。初等教育学科で言語文化ゼミを担当していましたので、多くの学生と言葉を通して関わりました。とくにゼミ生は、卒業論文を書く過程で、自分に必要な語彙や文体を身につけたと信じています。その論文を書いた余力で、私宛てに寄せ書きや手紙、自作の絵本や小説まで贈ってくれる学生がいました。ゼミではやや複雑な議論もし、論理的な文章の書き方も学びあったはずですが、交わした無数の言葉を押しのけて浮かびあがってくるのは、「先生、大好き」という、単純な好意を表す一言です。初等教育学科の学生たちは、あるときは照れながら、あるときは堂々と、小学生のように「大好き」と意思表示し、「先生」と信頼関係をつくることができました。この言葉を受けとるたびに、私の心は、学生と大学と都留に結ばれていきました。世界中どこへ行っても、こんな大学生に会えるとは思えません。 もう一つ、都留に「あるもの」としてあげたいのは、市民のみなさんの暮らしです。大学職員の多くは都留市民だと思います。10年ほど前でしょうか、ある職員の方に誘われて、山に登りました。初心者の私が、その方のお仲間といっしょに登らされ、下ろされ、温泉にも入って、山を満喫したのです。味をしめた私は、何度かいっしょに山に登り、食事をし、お酒を飲みました。それが、私の研究対象である金子みすゞの詩の勉強会につながり、成果をまとめた冊子『甲斐絹と文学散歩』を作りました。 この冊子とほとんど同時に生まれたのが、現在5歳になる娘の紫(ゆかり)です。また、それとほとんど同時に夫の単身赴任が決まり、私とゆかりは都留で暮らすことにしました。勉強会のメンバーが、よそ者の私に代わって、アパートと保育園の手配をしてくれました。ゆかりが病気になると、病院まで送り迎えをし、背中におぶって私の帰宅を待ち、食事も届けてくれました。私の育児は過酷な「ワンオペ」に見えて、そうではなく、都留で子を生み育て、親を見送ってきた市民に支えられています。 山とみすゞとゆかりを介して見えた、都留のみなさんの堅実な暮らし、やさしい心根。世界中どこへ行っても、こんな市民に会えるとは思えません。 結局、都留に「ないもの」などありませんでした。世界にただ一つの場所、都留に「ある」大学生と市民に、大学教員としての私は育まれ、支えられました。教員養成大学の教員養成学科にいながら、教員を養成できたのかどうか、自信がありません。このあとも、養成できるのかどうか、自分の能力や適性に限界を感じて都留を去ります。何もお返しできないままではありますが、都留に「あるもの」は人を育み支える力だと、言いおいていきたいと思います。 時代や社会の要請で、大学が変わっていかなければならないことは承知しています。改革の只中だからこそ、都留の持つあたたかい輝きが失われないことを願ってやみません。都留に「あるもの」学校教育学科 教授 藤 本   恵学生からの寄せ書き、手紙、絵本3都留文科大学報 第139号

元のページ  ../index.html#3

このブックを見る