学報139号
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講演会だより 詩によって生み出される世界、あるいは詩を通して感じられる世界の豊かさとは、私たちが普段使っている言葉とは何か違う働きによって生み出されるように感じられることがあります。佐藤先生はまず、ご自身の詩との出会い、驚きの体験も紹介する形で丸山薫の「島」という作品を挙げられました。航海の途中で小さな島を通り過ぎた際の船乗りたちの反応を描いた詩で、特に複雑な内容ではありませんが、しかし一つ一つの言葉の配置やその響き合いを縦横に読み味わうことによって、そこに語られていること以上の光景や心情といった豊かなイメージが浮かび上がってくるさまを実感させてくださいました。 次に挙げられた三好達治の「雪」はよく知られた作品ですが、わずか2行の平易な短詩で、語り出されている事柄といえば、眠る兄弟と屋根に降り積もる雪を描いただけの単純極まりない内容です。にもかかわらず、無名に近い「太郎」「次郎」という名前の普遍性や連続性から、個別の情景を超えて多くの子どものイメージが広がっていき、それが「ふりつむ」という現在形による持続の印象にも支えられていること、また表には現れない母親の気配が背後に呼び起こされること、一方でここに描かれているのは人間の子であるのか(たとえば飼い犬であってはいけないのか)といった解釈の可能性もあること等が示されました。 さらに話題は、斎藤茂吉の連作短歌「死にたまふ母」に及びました。そのピークと目される一首には、死の床の母に寄り添う者を包みこむ空間の奥行きと広がりが、一首の中心にある「しんしんと」という平仮名の擬態語に情感豊かに包み込まれています。先生はこの歌に対していくつもの翻訳があることも紹介されましたが、それらも詩の言葉の開かれた性質を示しています。辞書的な意味に限らないイメージを喚起し、一つの言葉がいろいろな連想を派生させること。言葉はそれ自体が固有の音色や音響を伴っている一方で、文字として視覚的な印象を有すること。この一首に駆使されている詩の言葉の働きとは、私たちと言葉の多様なかかわり方を示すものであって、揺れのない意味を効率的に伝えようとするコミュニケーションの道具という日常的な側面は、実は言葉というものの本来的な機能からすれば、ごく限定的な(あるいは貧しい)ものでしかないかもしれません。 先生は最後に、ジョージ・オーウェルが未来の管理社会を描いたディストピア小説『1984』に出てくる「ニュースピーク」と呼ばれる人工言語に触れられました。文法や語彙を整理削減して唯一特定の意味への収束に向かいながら、人間が思考し想像する能力を低下させていく悪夢のようなストーリーですが、作中でそれは2050年までに完成するだろうと予言されています。詩というものの豊かで無類の世界に触れることは、言葉の働きを回復するうえで重要な使命を帯びた営みだろうと結ばれました。(国文学科教授 野口哲也)都留文科大学国語国文学会秋期講演会「詩の言葉の働き」講師紹介佐藤 伸宏(さとう のぶひろ) 1954年生まれ。東北大学文学部(国文学専攻)卒業、同大学院文学研究科博士課程(国語学・国文学・日本思想史学専攻)修了。ノートルダム清心女子大学、宮城学院女子大学を経て、1989年より東北大学に勤務。現在、東北大学大学院文学研究科教授。博士(文学)。専門分野は日本近代文学、比較文学。とくに日本近代詩に関する比較文学的研究、翻訳研究。岡崎義恵学術研究奨励賞、日本詩人クラブ詩界賞(研究・評論部門)。主要著書に『日本近代象徴詩の研究』(翰林書房)、『詩の在りか―口語自由詩をめぐる問い』(笠間書院)他。開 催:2018年11月21日(水) 講演者:佐藤伸宏氏342019年3月8日(金)
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