都留文科大学学報(最終)【Web差し替え(R7
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 35歳で本学に赴任して以来、ちょうど四半世紀、25年間勤めたことになります。定年前の退職で、意外に思われるかもしれませんが、よくよく考えたうえでの決断です。 じつは私は、赴任してからずっと、「不本意ならいつでも辞める」という構えを持ち続けてきました。一度も学外研修に出ていないのも、事後の「2年間しばり」が嫌だったからです。この構えが、私の発言や行動に見え隠れしていたかもしれません。 私は研究者にはめずらしく、大学卒業後に民間の零細企業に就職しました。しかしそこを半年で辞め、転職した先の零細企業も1年半で辞めました。どちらも社長との折り合いが悪かったという事情もありますが、それにも増して、「企業とは何か」という本質的な部分が、零細だからこそ見えやすく、「ここ(企業社会)は自分が居る場ではない」ということ、不本意の極みであることがはっきりしたからです。そこから大学院進学の準備を始め、一回目の受験では不合格、翌年の二回目の受験で合格し、研究者への道を辿ることになります。研究者として何とかなるという見通しがあったわけではありません。ただ、私の場合は、たとえ研究者としてうまくいかない時期があったとしても、民間企業に「逃げる」ことはあり得ないのです。「自分が居る場ではない」とわかっているからです。後で考えてみると、私の民間企業への就職は、そこには逃げられないという形で、自ら「退路を断つ」ことになっていたのだと思います。そのことが、研究者への道を支える「強み」になったのは確かです。 さて、民間企業は1年半しか続かず、「不本意ならいつでも辞める」という構えの私が、25年もの長きにわたって本学に勤め続けてこられた要因を考えてみると、「理解者の存在」に行き着きます。私は法人化前の本学で、いくつもの組織やセンターの前身の立ち上げを中心的に担いましたが、これらの多くは後藤道夫さんという理解者の存在なしには考えられません。最も近いところに後藤さんが居たことで、私は本学に「定着」することができたのだと思います。そして、本学の法人化の前後、私は法人化に反対し、また法人化後の大学運営を批判する側の、最も目立つ旗振り役になっていました。これは教育学の研究者として、教育の、そして大学の根幹がないがしろにされることを座視できないという義務感からの行動だった面はあります。しかし、私の行動を直接に支えてくれたのは、同僚教員の理解者でした。出入りはあったものの、常に10数名は顔の見える理解者がいました。私の考えを理解し、行動を支え、協力も惜しまないでいてくれた理解者の存在こそが、私が本学に勤め続けられた最大の要因だと断言できます。もちろん、顔が見える理解者だけではなく、陰で応援してくれた理解者も少なくないのだと思います。こうした理解者たちと共に在り、共に行動できたことに、感謝の念を禁じ得ません。 いま、本学に限らず日本の大学は、どんどん働きづらい環境になってきています。ただそれは、私が退職を決断した大きな要因ではありません。最大の要因は、私の人生に「やり残した」と思えることがあるからです。機が熟したと言えるでしょう。それが何であるかはあえて述べませんが、それをやるための時間が、定年まで勤めると5年間短くなることが「惜しい」としか思えなくなったのです。 退職後、他の大学に勤めることはありませんが、2年間はゼミの継続のために非常勤として本学に週1回通いますので、お声をかけていただければ幸いです。退路を断ち、理解者と共に学校教育学科教授 西本 勝美へき地小規模校のフィールドワーク(2015年11月)さよなら文大62023年3月6日(月)

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