学報157
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さよなら文大教職にかかわるようになって38年。大学院を修了してから附属小学校で12年、医療系の大学で18年、そして都留文科大学で8年。幼児から80歳を過ぎた高齢者まで対象は違いますが、ずっと教育に関わってきました。もともと教員になるつもりはなかったので、よくも続いたものだと思います。とくに大学教員には研究テーマがありそれを追究し、授業として講義していくものだと院生時代に感じていました。退職を前に自分の研究テーマは何だったのかと問い直したとき、何を残せたのか分からなくなっています。それでもこれまでかかわった子どもたちや学生は各々活躍していて、政治家こそいませんが、小児科医や空港職員、老舗菓子屋、建築士、社長もいたりして、多種多様な場からときおり近況を知らせてくれています。もちろん教師になって全国で活躍している卒業生もいます。みな、それぞれに楽しく明るく暮らしているようです。以前、先生をめざしている学生に、「自分が弁護士や医者になることはできないけれど、それになる子どもたちを育てることができる」と伝えたことを思いだします。教員になってよかったと感じることはたくさんありますが、卒業生から結婚式に呼ばれるときはいつも心が躍ります。なかでも小学校で教えた子どもの場合は、わが子の式に参加するくらいの喜びを感じます。壇上の新郎新婦を見ながら話すときは、自分の思いが伝わっていたことを実感する瞬間です。研究とは自分の知りたいことを自分のために深めていくことだと思います。ある意味「遊び」に近い自己目的的活動です。それが論文になり業績となって公表され評価されます。それは自分が楽しく夢中になれればいい、他人がどう感じようと思いをぶつければいい。そんなものだと感じます。教育はどうかというと、はじめから目標があって、その時代の望ましいとされる価値と自分の思いがどう伝わったかという成果が問われる外在的で手段的な活動です。そう考えると研究と教育は対極にあるのかもしれないと思っています。しかし研究にせよ教育にせよ、伝える行為は同じかもしれません。自分の思いを伝える。どんな思いも伝わらなければ意味がありません。これまで自分の願いとは裏腹に、うまく伝えられなかったことがたくさんありました。若いころは「なんで分からないのだろう」「なんど言ったら伝わるのだろう」とうまく伝わらなかったことに腹立たしさを感じたものでした。でも、いつしか「思いを伝える」ためにはそのための技術が必要であり、自分が「伝えたい」気持ちより、いかにして相手が「聞きたい」と思わせるかが重要ではないかと思うようになりました。これまで教室や講演会場で、さまざまな聞き手とその環境で思いを伝えてきました。何が伝わったのか、それが自分の伝えたかったことなのか、知る由もありません。それでも38年間、「思いを伝える」ことに力を注いでいたことに誇りを持つとともに、その場を与えられてきたことにあらためて感謝します。思いを伝える学校教育学科教授 加藤 優令和6年度卒論発表会・最終講義後、ゼミ生と82025年3月10日(月)

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